環境問題
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環境問題

環境問題を中心に考え、政治をしなければならないと思うのは私だけかなあ?
でも、ごく身近に環境が壊れているシーンがあるよね。
目に見えるものであれば、山を切り崩されてそのまま放置されてるとか、洪水が起こるとか。
噂では酸性雨で、頭がはげるとか(?)。
すべて人間の仕業で、少しは反省しなくっちゃね!

この環境問題は、どうしてもワールドウォッチ研究所「地球白書」に頼らざるを得ないことを始めにに告白しておきます。
したがって、引用してもそのたび「地球白書」のクレジットは入れません。
そこのところを、レスター・ブラウンさん、よろしくお願いします。




人口問題
生物多様性
核廃棄物
自動車

ヴァージン原料とごみ

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人口問題

普通、環境問題といえば人口問題が最初にくることはない。
しかし、もう解決しようがないのが人口問題である。
そして、人口問題がすべての環境問題に関与していると言っても過言ではない。
人口問題を無理に解決しようとすれば、ほかの環境問題を悪化させることも予想される。

恐らくここを読めば私を冷たい人だと思うだろう。
しかし、これが現実である。
世界の人権主義者は偽善者か、あるいはワールドウォッチ研究所の人々のような方々である。



世界の人口問題
二年前にすでに世界人口は60億人を突破している。
今、最も危惧されている国はインドであり、インドは2050年予測で15億人で中国と並ぶという。
この国では子供の約53パーセントが栄養不足と体重不足の状態にあるのに、政府は財源の驚くべき割合を核大国になるための費用を注ぎ込んでいる。
人口増加が激しいのは、やはり第三世界が多く、エチオピア、パキスタン、ナイジェリアなども深刻だ。
中国、アメリカも増加するのは確実で、アメリカなどは、今後も自国だけに有利に経済を展開するから、人口問題などという認識はない。

中国では少子化政策で人口増加率は減少し、表面上、問題にはしていないが、確実に食糧輸入国になる(もうなっている?)。
これは新たな環境問題の火種となる。
今、中国は世界中の投資家の魅力ある市場となっている。
日本の二十分の一の人件費で、急成長している。
これによって、地方の若者は、やはり農業を捨て、より高収益でハイテク化された産業を選び始めた。
さらに、単位土地あたり、そして単位水あたりの生産性は、よりハイテクな産業に比べると、農業は比較にならないほど悪い。
したがって、農地は工業用地、農業用水は工業用水へと変わっていく。
結果として、農作物は不足することになる。
世界最高の人口を抱える中国が食糧輸入国になるということは、世界的に見ればさらに食糧不足になるということだ。
中国で起こっている、同じような産業の転換が、途上国で次から次へと進めば、状況はひどいものになるであろう。

現在というか、1998年の穀物消費量は世界一人当たり319キロである。
インド人のそれは、平均で200キロだそうで、これは生存ぎりぎりの消費量だという。
一般に発展途上国を中心に栄養摂取量は低く、世界では毎日19,000人の子供が栄養不良とそれに伴う病気で死んでいる。
他方、先進国は過食で太り過ぎの人口が増え、それに伴う言わば”贅沢病”が増え、新たな健康保険の負担が増えている。
アメリカでは9,700万人の成人が太り過ぎで、成人人口の55%にあたる。
ロシアは57%、イギリスが51%で、これがワースト3。
アメリカの1998年の穀物消費量は一人当たり900キロでインドの4.5倍であった。

今世紀にはこのままいけば、人口100億人に達するという。
100億人がアメリカ人と同じ量の穀物を食べるとしたら、今の生産量で地球が4つ以上必要である。
これは極端な例えだが、現在の穀物消費量と人口の掛け算から出された全穀物消費量は、319×60億で1,914億キロで、将来人口の100億でこれを割れば、一人平均の穀物消費量は191キロとなる。
均等に食べ物を世界中で分け合っても、生存分すら足りなくなる。

食糧生産を増やせば問題ないのだが、実はもう今までのようには生産量は伸びないと言われる。
バイオテクノロジーがいくら進んでも、植物の成長はすでに生理学的限界に達しているようだ。
つまり、養分の効率的利用の限界点に達している。
さらに土地利用も飼料作物への転換もあり、純粋に人間の食べるだけの穀物に対する土地利用は減っている。
また先ほどあげた中国の産業転換の例でもわかるとおり、換金経済の弊害が世界中で出るものと予想される。

食糧不足がもっとも深刻になる条件がある。
それは水が絶対的に足りないという悲惨な事実だ。

人口急増地帯インドでは、主要穀倉地帯で地下水が毎年0.5〜0.7m低下している。
現在世界最大の穀物生産国の中国も、40%を生産する華北で一年に1〜1.5mずつ地下水位が低下している。
主要穀物輸出国アメリカでも、世界最大の地下水系で、毎年膨大な水量が減少し続けている。

今でさえこの状況なのに、どうやって穀物生産量を増やせというのだろうか?
私はもう第三世界の人口問題は解決できないと思う。
人権を前面に出し世界中に干渉するアメリカが、世界の富を独占しようとしている現実を目の当たりにして、「世界の飢餓を救え!」などと私には言うことはできない。
「日本はアメリカの属国である(副島隆彦)」。
あなたならどうしますか?
世界中の人がすべて、問題解決のためにあらゆる手段を尽くして、初めて解決するかもしれないものなのに、あなたの娯楽費をすべて、第三世界の食糧のために寄付できますか?


私は以前、ごくわずかな金をユニセフに寄付したことがある。
突然ダイレクトメールが届いて。
「募金10万円で浅井戸用手押しポンプ一式を6セット贈ることができます」とか書いてあるもの。
「地下水位が低下しているのに、こんなものでいいのだろうか?」
「これよりも重要なもっとすべきことがあるはずだ。」
「その場しのぎは無駄だ。」
心の中はこんなつぶやきでいっぱいである。
学生時代、友人のY君が「世界に人口問題を解決するのは何よりも先にコンドームを無料配布することだ」と言った。
15年も前の話だが、実に的を得ている。
そして教育である。
その前に教育内容を頭に入れるため、食糧という名のエネルギーが必要であった。
しかし、そのエネルギー源を減少させ飢餓の原因を作ったのも、実は、天下のアメリカ合衆国である。



世界の飢餓はアグリビジネスの誕生に由来する(引用 天笠啓祐著「遺伝子組み換え食品」
本格的なアグリビジネスは、19世紀末、アメリカ資本が中南米で巨大な農園を経営して始まった。
このときは砂糖やバナナが主役であったが、穀物を支配し始めたのは20世紀に入ってからである。
アメリカ国内の余剰穀物は、初めは政府主導で海外へのはけ口を求めて援助されていた。
1954年PL480号農業貿易促進援助法が成立し、この後は海外援助の主役は、政府から穀物メジャーへと移った。
援助される側からしてみれば、低利で、長期返済、しかも現地通貨での支払いができたので、アメリカの農産物を買うことができた。
しかしこれが災いし、援助された国の食生活は変化して、アメリカへの食糧依存という体質を生み出してしまった。
日本での学校給食はなぜパンなのか?
それはPL480号の成立した同じ年に学校給食法が成立し、コッペパンと脱脂粉乳を加えた給食が全国に広がった。
この1954年、55年の2年間で援助は終わるのだが、パン食は定着してしまい、アメリカの安い小麦を買うシステムがこのとき作られた。
その影響で日本農業の一つの柱であった裏作が崩壊してしまった。

第二次大戦中にロックフェラー財団が「緑の革命」なるものを始めた。
高収量品種の開発である。
現在の農家が、ただの作物を作るロボットと化した原因がここにある。
彼らはこの種子を支配した。
そして高収量品種であるがゆえ、食糧生産の方法も大規模灌漑へと変えてしまった。
大型機械や大量の化学肥料や農薬が必要になり、小規模ほど没落していくという金がかかる農業へと変質し、大地主に有利となる。
この大規模化に伴う危険農薬の大量散布で、環境ホルモンという新たな環境問題も作ってしまうことになる。

この「緑の革命」で開発された高収量品種が第三世界に入ると、その地域の旧来からの作物は駆逐され、多種類のものを少しずつ作る伝統的農業は崩壊する。
そして、単一種のものを多量に作る大規模化農業だけが生き残った。
どこの政府も同じようなもので、政府は財力のあるものと組む。
決して弱者とは組まず、弱者は利用されるだけである。

第三世界の政府は、大地主や先進国のアグリビジネスと組んで、今度は換金できる作物つまり輸出用作物を作り始めたのだ。
換金作物をその地域の人が買えるわけがない。
また輸出した換金作物でドルを稼ぎ、そのドルで小麦などの穀物をアメリカから買うというパターンになってしまった。
そんなことをしていれば当然債務は累積し、もう穀物を輸入することも困難になる。
その地域の旧来からの農業はすでに崩壊しているから、食べ物がない。
第三世界の飢餓はこうやって発生したのだ。

一度飢餓が始まれば、教育もクソもない。
子供を作るなといっても性欲はあるだろうし、教育する環境すら作れない。
次から次へと子供は生まれ、死んでいく。
「ここが変だよ、日本人」とかいう番組でテリー伊藤が言っていた。
「子供が死んでいくから、また子供を作るんだよ」と。
それはウソだ。
死んでいく子供を見て、また子供を作る親がどこにいる?
性欲が子供を作るのだ!

「自殺種子」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
この種子は巧妙な遺伝子組み換え技術を用いて作られた。
種子を殺さず、種子が発芽する時点で自殺するように毒素を蓄積させるのだという。
これを世界最大の綿の種子企業デルタ&パインランド社(アメリカ)とアメリカ農務省と共同で「ワタ」で開発された。
これはターミネーター種子と呼ばれるが、この技術は現在、デルタ&パインランド社を買収したモンサント社(米)が所有している。
モンサント社は遺伝子組み換え作物を支配している4つの企業の一つで、この技術を利用して種子支配を完全なものにしようとしている。
当然、世界中から激しい非難を浴びている。

このように農業はすでに企業に支配されている。
日本を見てもわかるだろう。
農家は農協に支配されている。
農協組織を維持するために農家は働いているのだ。
「農家のための農協」はいつの間にか変質している。

畜産農家ではあるが、一つ端的な例をあげる。
これは1998年に発行された「別冊宝島M 日本最後の不良債権」からの引用である。
農協のあり方を考えている岩手の弁護士千田實さんを、ジャーナリスト柳原滋雄さんが取材したものだが、この千田さんは当時30もの訴訟を手がけていた。
畜産農家は子牛や子豚を買って育てて、市場に出す。
その収益でご飯を食うわけだが、子牛や子豚は農協を通して仕入れ、餌も農協から買う。
そして成牛、成豚も農協を通して売る。
すべての取引で農協が価格を決めている。
これでは農家は単なる農協の作業員でしかない。
驚くことなかれ、なんとこれで生じた負債は農家がもつことになるというのだ。
平均で2億ぐらいだという。
それで千田さんは農家の味方になって訴訟を助けている。
    
農業を単なるビジネスと捉えるならば、食糧不足という問題はもう解決しない。
世界の人口問題は、さっさとあきらめたほうが良い。

仮に何事も食糧分配がうまくいって飢餓がなくなったら、今度は先進国並の生活を第三世界は目指すだろう。
そこでどうやっても解決できないエネルギー問題、資源問題が出てくる。
発展していく中で先進国が歩んできた道を同じように第三世界が歩むなら、同じような環境問題が続出し、地球環境は今よりもっと悪くなるのは確実だ。



日本の人口問題
日本には人口問題がないと思われるかもしれないが、実はある。
指摘すればなるほどと思うだろう。
日本の人口問題は雇用問題である。
ここでは「成長の限界」を前提として述べる。
成長に限界がないというのなら、この話はナンセンスであるからである。

さまざまな科学の発展で社会生活は大変便利になった。
戦後の進歩は目覚しいものがある。
しかし、今、便利さが職場から人間を必要としなくなった。
手作業に重きを置く産業の雇用は、それほど減ることはない。
むしろ雇用される側のほうが作業の楽な仕事を求めて高次産業へと移動し、漁業のようなKのたくさんつく産業は衰退していく。
その労働人口の移動した産業は、作業を機械化し、ここで雇用危機を迎えるはずなのだが、日本の場合、超高度成長期が重なった。
それゆえ雇用危機は表面上は現れなかったのである。
しかし、機械を扱えない者は失業するか、再びローテク産業へと戻ることとなる。
その後、どんどんロボットは優秀になり、あらゆる面において人間を上回るようになった。
さらに情報化社会到来で事務までほとんど機械がやるようになる。
今はどう見ても成長の限界点を過ぎており、この状況で雇用危機は深刻である。
さらに不況を理由に、効率的な大企業は労働者の首を切りやすい。
リストラを断行し、グローバル市場で生き残りをかけるために。
すでに指摘したが、あまりに高騰した賃金のせいで、周辺諸国との賃金格差が生じ、産業空洞化を招いたことも雇用危機の原因となっている。
欧米からの価値観の移入がこれを招いたのだ。
すでに日本人の価値観は単一化されつつあり、社会の動きを見れば常に合併、大規模化が普通となっている。
これは更なる効率化を目指すものであり、更なる失業率の悪化につながる。
本当に雇用を考えるなら、非効率な産業に政府は投資すべきなのだが、効率化することに予算を割こうとする。
政府は実に変な金の使い方をしている。
なぜ、雇用不足が深刻なのに少子化対策に金を使うのか?
職がないのに人口を増やしても、貧困を増やすだけだ。
人口の減少は、地球的視点では、最も好ましい現象だ。
「人口が減れば、国は衰退する」という人間は、「小さな政府」を知らないのだ。
こういう人に限って従来の利益誘導を肯定し、そのツケを後の世代に平気で残そうとする。
森内閣のIT化バカのおかげで通信産業の一人勝ちであるが、パソコン業界、半導体業界は不況である。
確かIT化が雇用創出になると言っていたが、数字は逆になっている。
通信産業といえど所詮手数料産業で、コンピューターが全部仕事をする時代が来るだろう。
仕事はなくなる。
人口が多すぎる。


日本の人口問題を雇用の観点から見ると、アメリカのグローバル資本がアグリビジネスで第三世界の飢餓を産んだ構造によく似ている。
グローバル経済は悲惨だ。



生物多様性

生物多様性がどうして必要か?
生物多様性という言葉を知っていても、その意味を知らない人が多いのではないか?
植物で例えてみよう。
ある野菜が何かの病原菌で病気になったとする。
その時、その野菜が 単一種であったなら、絶滅するだろう。
しかし、同じ野菜でもさまざまな種類が存在するから、品種改良によって解決することができる。
今は遺伝子操作が可能だから、さまざまな種があったほうが、さまざまな問題解決に利用することができる。
だから、種の保存、そして多様性の維持は、絶対に必要なのだ。

ジャガイモの話。
1840年代にアイルランドで単一種のジャガイモが葉枯れ病で全滅した。
それで100万人以上が死んだと言われている。
今世紀になって殺菌剤によって防げるようになったが、今度は殺菌剤に対して耐性のある菌株が大発生している。
これによってタンザニア高地ではジャガイモは全滅した。
世界中でも、ジャガイモは15%減少して32億5,000万ドルの損害が出た。
ここで多様性の恵みを自然界から授かることになる。
アンデス山系のジャガイモとその同種族の遺伝子プールの中に問題の菌に対する耐性を見つけ出した。
この応用で収量回復が見込まれている。

また私たちが飲む薬は、さまざまな動物や植物が利用されている。
環境破壊によってこれらの種が減っていくことは、私たちにとってもいいはずがない。
さらに今後、院内感染の原因である現場の薬品から生まれた耐性菌の新たな出現によって、治療困難な病気が出てくるだろう。
その治療薬が多様な生物の遺伝子から見つけられかもしれない。
多様性の恵みを最も利用しているのは人間である。
だから生物多様性は必要なのだ。



多様性を無視する勢力
日本国内でブラックバス釣りが流行し、既存種を脅かしている。
バス釣りをする人たちは自分の楽しみのためだけにバスを放流したのだ。
それほどまでにバス釣りを楽しみたいのなら、バスのいる海外へ行けばいいだけの話であるが、バスをサケなどの放流事業と一緒にする学者もあらわれている。
だいたい限られた湖沼と開かれた大洋を一緒に考えるのは間違いだ。
オリのかなにライオンと人間を入れたら、人間が食われるに決まっている。
その学者をライオンと同じオリに入れて反省させたい。

世界の飢餓はアグリビジネス誕生に由来する」で触れた種子の独占企業が多様性を無視する勢力の代表だ。
彼らはその知的所有権を楯に、均一種の独占を狙っている。
世の中の種子に多様性がなくなればなくなるほど、彼らは均一種を支配でき、金儲けができるのだ。
しかも、その種が脆くも病気で全滅しても、恐らく何の責任もとらないだろう。
非常にタチが悪く、史上最低の企業である。



人間社会の多様性
多様性は人間社会にも必要である。
そしてこれが地球を救う一つの手段であると私は強く思う。
人それぞれ考えが違い、感情、感覚も違う。
幸せの感じ方も違うし、好きなものも違うだろう。
全く同じ人間のいるほうが、逆に気持ち悪い。
違う人間だらけだから、何か事故や困難に直面したとき、知恵を出し合って解決できるのだ。
社会もそうだろう。
大なり小なり、私たちの周りにはたくさんの社会がある。
それぞれ役割が違って、それでうまくいく。
良いところは他から取り入れて、または参考にして発展させていく。
もし、同じような社会組織だけだったなら、進歩もなくただ何度も崩壊してはまた復活しての繰り返しであっただろう。
ところが最近、小さいものはダメだ、大きいものほどいいという風潮で、合併が促進されている。
この時よく使われるのは、「体力をつける」という言葉だが、この意味を少し考えてみよう。

会社などが合併すると、その中で動かせる資金が多くなるのは確かに利点となる。
大会社ほどさまざまな事業を展開しており、一時的に採算の取れない事業に対して、不足の資金を回して補うことができる。
これが専門事業だけの会社だと、その資金は金融機関からの調達となる。
つまり、大規模経営体ほど利息を気にしないで資金調達できるのだ。

しかしこれは会社内での解決法であって、社会全体では何の解決にもならない。
見掛けだけ良ければいいと言うものではない。
この手法は非常に排他的で、自身の生き残りしか考えていない。、
正当な市場経済を否定することになり、最終的に、一般消費者の利益になることはない。
なぜなら、市場価格を大企業に支配され、不当な価格がつけられることになるからである。
ましてや、ライバルの専門会社が倒産して、それでも採算の取れないような事業なら、「体力増強」は意味のないものとなる。

所詮、合併合併と叫んでいる人たちは、そんな浅はかなことしか考えていない。
根本的な問題を隠したいか、あるいは考えたくないか、どちらかだ。
よく考えてみよ。
これまでの経済の流れを見るなら、合併後は企業は何をする?
その企業内では、大会社ほど合理化、「肩たたき」するはずだ。
「体力増強」で問題解決しようとするのは、権力側の都合のいい言い分でしかない。
どんな産業界でも、少数化、均一化されれば、独占体質が露出する。
たとえどんなにすばらしい企業であっても、いつかは必ず腐る。
佐高信氏の有名な「鯛は頭から腐る」からもわかるように、どんな良い組織でも必ず頭から腐るのだ。


地方分権と引き換えに、自治体合併が流行である。
合併の理由は決まっていて、「財政の悪化、維持困難、合併で財政強化」しかない。
吸収合併される側はわかっているのだろうか?
たとえ合併しても、その地区の赤字は赤字でしかない。
自治体なんてものは事業=赤字で、税金=職員の給料なのだ。
そして赤字は御用事業請負業者の利益となる。
しかし、その地区で全く事業しないわけにはいかないだろう。
となると改善策は職員の給料を減らさなければならない。
まあ、大体の自治体は赤字なわけだから、その赤字を単体で減らさない限り、首切り目的の合併では意味がないことになる。

ここで身近な宮古市と田老町を見てみよう。
田老町はご存知の通り、どうにもならない財政赤字らしい。
そもそも規模が小さいなら小さいなりに、事業をすれば問題はないのだが、格差是正だの、地域振興だの、活性化だのと不合理な事業をするからこうなるのだ。

私は、田老町の小さいゆえ盛り上がるあの運動会が良いものだと思う。
また漁協主催の組合員祭りや物産展も、小さいゆえ盛り上がっていると思う。
もし宮古市に併合されて、あの運動会は残るだろうか?
田老には田老の良さがあるはずだ。
それが失われるのはもったいない話だ。
合併すればリストラで、自治体の維持費は確かに減るだろう。
しかし宮古市とて赤字体質なのだ。
合併したからといって財政赤字が改善されるわけではない。
成果は、今後の市長、議会の手腕しだいである。(非常に私は現熊坂市長には期待している。ゆえ、批判は厳しくするつもりだ。)

合併すれば規模は大きくなり、市民の声は通りにくくなる。
それに伴って自治体の数が減るということは、中央政府にとっては非常に都合が良くなる。
意見の数が少ないということはまとめやすいからである。
悪く言えば(こっちの方がほとんど)地方を操作しやすい(同時に地方の頭が腐ったら大変だ)。
地方のロボット化が進めば、これも似たり寄ったりの自治体だらけになって、腐敗が横行し始めたら目も当てられない。
他の自治体に学ぶという処方箋もなくなる。
岩手の場合、今の増田知事がしっかりしているから、そうなるとは思えないが、でもやはり「鯛は頭から腐る」である。
いつかは必ず腐る。(あたりまえ!)

さまざまな組織が小さく多様化しているのは理想であるが、それを支えるものがなければやっていけない。
多様化を維持するには、おのおのの価値観をもつことだ。
一人一人の、そして地域には地域の価値観を持つことだ。
そうなれば、誰が金持ちになろうが、威張っていようが気にならなくなる。
その一つの方法として、やはり地域通貨の導入が不可欠だと私は思う。



核廃棄物

核廃棄物は原子力発電の廃棄物のほかに医療廃棄物もあるが、ここではエネルギー問題の一翼を担っている原子力発電のゴミを考察してみる。
原発のゴミは、一般に高レベル放射性廃棄物と低レベル放射性廃棄物に分けられている。

まず高レベル放射性廃棄物であるが、これは話にならない猛毒でこの世のものじゃないくらいスゴイ。
アメリカが日本に投下した原爆の死の灰よりひどい。
できたての廃棄物のガラス固化体1本には、セシウム137という放射能で比べ、広島原爆で放った量の100倍の放射能が含まれている。
これをそばで1分間浴びれば被爆量は200シーベルト。
2000年「原子力安全白書」では15シーベルトで神経系の損傷による死、100シーベルトで急性中枢ショック死が保障されている。
100万キロワットの原発を1年稼動させると、このガラス固化体が30本できる。

原発の使用済み核燃料は今まではフランスに送って再処理してもらい、それがこのガラス固化体として徐々に送り返されている。
全部で2200本返還予定で、実はこのゴミ置き場がまだ決まっていない。
「青森県の六ヶ所村がそうだ」という人は間違っている(私もそうだと思っていた(^^;)。
六ヶ所村は一時保管場所に過ぎない。
この廃棄物を地中深く埋設することを地層処分という。
地層処分についてのフォーラムが岩手県でも開催され、2001年12月22日付「岩手日報」で記事になっている。
それに対しての私の投稿をここに載せておく。

 本県では環境首都を目指す一環として、ダイオキシン生成抑制に積極的である。家庭でごみ焼却に対する論議も環境問題に対する関心の高さを示すものである。しかし、原発の産する放射性廃棄物についてはどうであろう。
  二月二十二日付けの特集記事「エネルギー・フォーラム」の内容を県民はどう捉えたであろう。高レベル放射性廃棄物とはどういうものか、それすらわからない人がほとんどである。
 高レベル放射性廃棄物つまり死の灰はキャニスターといわれるステンレス製の円筒容器にガラスと一緒に固化されたもので、キャニスター一本には広島型原爆の約三十発分の死の灰が詰まっていて、三十秒間そばにいるだけで即死するほどの猛毒だと言われている。厄介なことにその放射能の寿命も地球の寿命に近いほど長い。それが二〇〇一年四月末現在四六四本、青森県六ヶ所村に搬入されている。さらに海外から二千本以上が搬入予定とのこと。
 これらの地層処分で「人工バリア」という言葉が出ているが、この人工バリアも残念ながら腐蝕する。その耐久性試験を岐阜県で行われそうになったが、当然反対運動が起きて取りやめになった。つまり、試験を行うということはそれだけ人工バリアの耐久性に難点があるということで、絶対ではない。放射性廃棄物が地下水脈に漏れ出し、これが水の循環で地表に現れた時に深刻な放射能汚染を引き起こす。岐阜県では物質移行試験も行われている。これは漏れ出た廃棄物がどのように動くか地下の状態を調べるもので、つまり漏れ出すことをすでに想定していることを意味する。現時点では地層処分は非常に危険であると言えるだろう。
 原発を含めた各施設の事故の起こる確率は決まっているとアメリカでは報告されている。つまり一定の確率でチェルノブイリ級の事故は起こるのである。そして各施設が多くなればなるほど、その確率は高くなる。二〇〇〇年十一月十九日、六ヶ所村で再処理工場の使用済み核燃料の貯蔵プールで、冷却ポンプが一時停止する事故があった。冷却が止まると核燃料が溶け出し、臨界・爆発につながる可能性が大きいと言われている。隣県で取り返しのつかない事故がおきたらどうであろう。本県も全滅である。 このことを踏まえて広域に被害の及ぶよな施設が隣県に建設されるような場合は本県がそれを非難することは当然の権利である。下北の東通村に新たに原発が建設されようとしている。少なくとも知事には苦言を呈してもらいたい。問題の重大さはダイオキシンの比ではない。
 核エネルギー問題を考えると、結論は原発の全否定である。電力不足は産業界にはマイナスであるが、地球上を放射線で汚染されるよりはずっとマシである。今回の高レベル放射性廃棄物の地層処分の記事は、県民がどれほど核廃棄物について知識があるか試しているようにも見える。ぜひ核エネルギー問題の本質に対しても知識を深め、議論してもらいたい。

     参考・引用
       原発のゴミはどこいにくのか
         創史社
       脱原子力社会の選択
         新曜社

これを投稿する前に、岩手日報へ電話をし、「エネルギー・フォーラム」の記事について問い合わせた。
電話で対応した人は、こフォーラムに出席した人ではなかったが、一応高レベル放射性廃棄物について聞いてみた。
私の半分の知識もない。
記事の見出しは「今こそ処理方法の議論を」だが、「議論の前にまず知識を!」と私は言いたい。
知識なくして議論は成り立たない。
記事中に「公募」という言葉が出ているが、高レベル放射性廃棄物や地層処分の実態を少しでも知っている人なら、「公募」という言葉を笑うに違いない。
処分場所に応募する自治体があるわけがない。
しかし金の力は恐ろしい。
財政の悪い自治体は受け入れようとするという。
投稿で引用文献を紹介しているが、その「西尾漠著「原発のゴミはどこにいくのか」(放射性廃棄物についてはすべてこの本から引用)で詳しく書いてある。
これを読んで、実は私も初めて廃棄物の実態を知った。
この本は昨年5月に出版されたばかりであり、原環機構(原子力発電環境整備機構)が間もなくフォーラムを行ったというのはあまりにタイミングが良すぎると思う。
原環機構のやり口を正面から批判した本が一般に知れ渡る前に、世論を操作したかったのではないか、と私は疑っている。
高レベル放射性廃棄物受け入れ問題を抱えているのは北海道幌延地区、岐阜県東濃地区、岡山県内陸地方で、いずれもさまざまな研究所の誘致や既に核燃機構などの研究所があるところで、無断試験(実験)が取りざたされている。
その地域住民は、もちろん反対である。

低レベル放射性廃棄物は、海外では高レベルに分類されているくらい高いレベルの放射性廃棄物も含まれているという。
法律の分類上そうなっているらしい。
この低レベル放射性廃棄物こそ、六ヶ所村の埋設センターが最終処分地である。
しかし、その杜撰な管理は開いた口がふさがらない。
搬入される前の廃棄物は、原発サイトにドラム缶で保管されているが、すでにその時点でドラム缶が腐り、中身が出ているという。
これを補修して運んでもまた、ポタポタ漏れるものもあるらしい。
また、雑固化体の埋設場所を二号埋設施設と言うらしいが、この場所のコンクリートがひび割れていて、そこにモルタルを塗りつけて補修していたとのこと。

恐ろしくなってくる。

原発もいずれ寿命または事故で使い物にならなくなれば廃炉となり、これを一基解体するだけで50万トンの放射性廃棄物が発生する。
原発が動いているだけで続々と毒を生み、止まった順に次から次へと大量に毒を出す。
さらにいずれはこの維持管理費は、電気代に転嫁されるという。
どこが経済的だ。
こんなバカな話はない。
今すぐ原発は止めてもらいたい。
さまざまの理由を付けて原発を推進しようとする人の土地に、低レベルでいいから管理をお願いする。
なんなら高レベルでもお好きなように!

なぜ、原発は東京などの都会に作られないのか?
それは危険だからだ。

関連施設も危険だから、田舎に追いやられる。
都会の電力が足りないから、地方に金をばらまいて安全と便利さを買っている。
「東京都の電源のために原発建設とそのゴミ処分場を受け入れてくれますか?」と石原都知事に聞いてみたいものだ。
電力会社は原発利権を手放して、トヨタやホンダのように積極的に家庭用の省エネ自家発電装置でも開発すべきだ。
自らがあらゆる代替エネルギーへの産業転換すれば、原発利権などいらなくなり、国民からも批判を受けなくて良い。

それを仕向けるのが政治の役割なのだが、政治家は利権に群がるから無理か。
たとえ、経済が後退しても、本当に原発を肯定する人はいないだろうから、国民も我慢するだろう。
現にアメリカのカリフォルニア電力危機が起きて、それでも人々は生き長らえている。
不便でも人間は死ぬことはない。
しかし、猛毒の中では生きられない。
そこのところを原発推進者は考えるべきだ。
  
さて、ここでカリフォルニア電力危機について触れたい。
この出来事を笑った日本人もいるかもしれない。
しかし、これはこの地の進取の気性が生んだ感動的な物語に不運が重なっただけの話で、笑うことはできない。
以下はすべて長谷川公一著「脱原子力社会の選択」からの要約となる。

カリフォルニアの州都はサクラメントシティーであるが、1989年6月6日、住民投票でサクラメント電力公社ランチョ・セコ原子力発電所の閉鎖が決定した。
天安門事件の年である。
14年間稼動してきた原発が住民投票で閉鎖されるのは、世界でも珍しい事態である。
1960年代に、国際原子力機関の設立者ストラウスの「原発のコストは安すぎて測れないほどだ」の言葉で象徴されるように、原発ブームがアメリカで起きて、サクラメント電力公社でもランチョ・セコ原発一号炉を1967年に発注した。
当時、原発のゴミは無視されており、「クリーンで安くて安全な」原発神話を疑うものはあまりいなかった。
しかし、これが悲劇となる。
この原発は1975年4月から運転開始となったが、運転開始前からすでにトラブルが発生しており、その後もものすごいトラブルだらけで、閉鎖するまでの稼働率は39.2パーセント、実に40日に1回の割合で止まったという。
しかし、当初、これほど事故が起こるとは誰も予想しておらず、2号炉の建設計画がすでに立てられており、建設債券発行が住民投票にかけられていた。
賛成55%反対45%で承認されたが、この45%の反対は、このサクラメントで初めて消費者による反対運動の起きた証でもあった。
1976年1月の理事会で、サクラメント電力公社は二号炉の建設を断念することにした。
経営者側から次の断念理由のレポートが提出されている。
  @オイルショック後のインフレで建設費が高騰した
  A核燃料のコストが高騰した
  B稼働率が見積もりの80パーセントを大幅に下回っている。全米平均でも60パーセント程度。
その年の6月には「カリフォルニア州エネルギー委員会は、連邦政府が高レベル放射性廃棄物処理に関する実証的な技術が存在すると認めるまで、いかなる原子力施設の新設もしない」というカリフォルニア原子力安全法を可決、発効した。
ゆえ、カルフォルニアでは今後、原発が作られることはない。
全米でも1978年を最後に原発の新規発注はない。
1979年に同型炉のスリーマイル島2号炉の炉心溶融事故が起き、それだけでものすごい衝撃であったが、1986年にチェルノブイリの原発史上最悪の事故が起き、世論は完全に反原発へと向かった。
しかし、現ブッシュ政権は原発推進を掲げた。

ここで注釈を加える。
史上最悪と書いたが、チェルノブイルも及びもつかない核惨事は既に1957〜1958年に旧ソ連で起きている。
これは原発事故によるものではないが、「地下に貯蔵された放射性廃棄物が爆発し」とされている。
しかもそれは低レベル放射性廃棄物という。
爆発によって廃棄物が飛び散り、1千平方ロ以上が汚染された。
これは当時、ソ連の放射性医学研究所放射線分子生物学研究室室長のメドヴェージェフがイギリスに亡命し、1976年にイギリスの科学雑誌「ニューサイエンティスト」で暴露した。
しかし、欧米の原子力研究者、CIA、米ソ両国は否定している(理由は簡単!)。
しかし言論の自由、出版の自由は尊いもので、西側のマスコミは次々とその証拠を見つけ出している。
その最初の一人、トウメルマン博士は次のように語っている。
「スベルドロフスクから約100キロメートルのところに“ここより30キロメートルの間、決して停車せずに最高スピードで走り抜けること”という道路標識があり、見渡す限り、壊れた家の煙突だけがあり、全く何もありませんでした。スベルドロフスクの周囲は極度に放射能を帯びていました。」
これが「ウラルの核惨事」で「キシチムの大惨事」とも言われる。(立花隆著「同時代を撃つV」

この大惨事を意味するものは深刻である。
まず、低レベル放射性廃棄物が爆発するということ、低レベル放射性廃棄物で大量の死者が出たということは決して字の通りの低レベルではないということ、そして、事故が本当はどういう事故なのか、という情報を米ソが明らかにしないこと(つまり、本当に低レベル放射性廃棄物が爆発して起きたのか?ということ。もしこれが本当なら完全に私たちは死神と同じ布団に寝ていることになる)


カリフォルニアに戻る。
ランチョ・セコ原発が閉鎖されるまで、サクラメント電力公社の総裁はめまぐるしく変わった。
しかし、それが原発を止めた原因ではない。
また先にあげた両事故も実は直接的な原因ではない。
原発を止めたのは超「草の根」運動だった。
チェルノブイリ事故直後にランチョ・セコ原発の危険性を深刻に受け止め、批判的な活動を始めたサクラメント市民はせいぜい20〜25人程度だった。
最初の反対運動からの組織「安全なエネルギーを求める市民たち」は常時いたのはだいたい15人ぐらいだったのだから、ものすごい少数である。
あるときブラックマンという幹部が、やはり超「草の根」活動をしていたコピー屋の女性と知り合い、それから急展開した。
その彼女の知り合いに弁護士や環境運動家がいて、必要な専門家が揃いだした。
そして運転継続派と即時閉鎖派という対立軸ができるまでに「草の根」は成長し、やがてランチョ・セコ原発閉鎖要求の住民投票へと進んでいく。
当時、この問題は全米の関心ごとで、住民投票は全米の原子力産業の行方を占う様相を呈していた。
両派の支援は全米規模となり、1988年6月7日に第1回住民投票が行われた。
この時、この原発は1985年12月以来停止しており、「試験運転再開」か「即時閉鎖」で投票され、「即時閉鎖」は否決され、「試験運転再開」可決された。
その差はわずか1%であった。
運転再開された原発はその後も運転実績は悪く、再度、住民投票が実施された。
「運転継続派」はこのキャンペーンで58万ドル投じている。
結果は冒頭のとおり。
住民投票はサクラメント電力公社の意思を縛る法的拘束力はないのだが、試験運転の結果が悪く、再度の投票で電力公社は信任されなかった。
住民投票の投票率は通常の選挙よりも10パーセントも高く、明らかに住民の意思であり、この決定に公営電力は従わざるを得なかった。
この結果、ランチョ・セコ原発運転の負債のうち、2.4億ドル分を1997年以降の電気料金に上乗せが予定されている。
ちなみに5億ドル分の負債は、回収不能として帳消しとした。
さらに原発廃炉の費用がどれほどになるのかの問題はまだ未解決である。
ゴミ(使用済み核燃料)は半永久的に残るのだから、膨大な費用となるだろう。

1990年、ディビッド・フリーマンがサクラメント電力公社の総裁となってから、この公社はよみがえり、世界の電気事業者をリードするモデルになる。
まず特筆なのは、ディマンド・サイド・マネジメント(DSM)だ。
これは電力需要を増やさず、そして電力設備を増やさずに、設備稼働率を高めて経営効率の改善に努めるという考えだ。
ピーク電力の抑制(例えば夏場の冷房消費電力など)で、余剰発電設備を持たなくてもよくなる。
これはピーク電力を考えて発電所を増設している現状を、逆に考えたものだ。
フリーマン総裁のすばらしいところは、基本的な方針DSMに従って事業を遂行していくことにある。
その需要抑制策の一つ「緑のエアコン」計画がそれで、省エネ用の植樹のため50万本の木を無料配布した。
さらにものすごいことをやっている。
旧式の多電力消費型の冷蔵庫やエアコンの買い替えキャンペーンである。
買い換えた人には報奨金が支払われ、なおかつ、その人は電気量が安くなる。

電力公社側はその省エネ分、発電負担、設備負担が減るから、報奨金を支払っても割に合うのだ。
このようなことは日本の電力会社にできるだろうか?
さて、フリーマン総裁は1994年に勇退している。
その後、彼はコモ・ニューヨーク州知事によって、ニューヨーク電力公社の会長兼最高経営責任者に招聘され、2基の原発を閉鎖しようとしたが、州知事選でコモは敗れ、共和党のパタキが当選した。
フリーマンは最高経営責任者の地位を奪われ、カリフォルニアのようにはできなかった。
筆者の長谷川氏は「原発閉鎖はカルフォルニアの住民の進取の気性によって、実現できたものだった」と述べている。

サクラメント電力公社ができるまでも曲折があった。
そもそも電力公社とは、消費者所有の電力会社である。
それを妨害する勢力が民間電力会社であった。
サクラメント電力公社は1923年創設であるが、PG&E社が抵抗もしくは妨害して、送電を開始したのは1946年末なのだ(なんと23年も営業できなかった)。
このきっかけもサクラメントの住民投票である。
この公営電力の出現で電気料金は下がり、配送電設備の更新拡充が行われ、消費者にその恩恵がもたらされた。
ちなみに、PG&E社のお膝元サンフランシスコでは1911年以来80年以上も、公営電力の設立に抵抗している。
サクラメント電力公社の歴史は、巨大な独占資本PG&E社との戦いであったがゆえ、サクラメントシティー住民の強力な意思が、ランチョ・セコ原発の閉鎖、ひいては今日の省電力やクリーン電源確保への取り組みへと導いたのだ。

この後、半導体産業の隆盛で電力が足りなくなったのが原因で電力危機が起きたのだが、皮肉なことに、今は半導体不況である。



  

自動車

地球温暖化の原因
温暖化の原因は、「温室効果ガスが急激に増えたから」というのが常識となりつつある。
温室効果ガスは水蒸気、CO2、メタン、フロン、窒素酸化物である。
なお、バイオマスが自然にやさしいというが、現状ではこれは誤りである。
バイオマス利用だけで地球上のCO2が循環しているのなら確かにやさしいのだ。
しかし化石資源を燃やしている限り、CO2の排出絶対量は変わらず、現状では、化石資源もバイオマスも同じ温暖化の原因に変わりはない。
CO2は炭素化合物をあらゆる方法で燃やしてできる。
そして個人が最も贅沢にエネルギーを消費し、CO2を出しているのが自動車である。



自動車の環境に対する負荷
今日、自動車ほど気軽に環境破壊を起こす道具はない。
日本では多くの人が環境負荷を考えずに、いや考えていても「赤信号みんなで渡れば怖くない」の感覚で、自動車を運転している。
しかし、ものすごい自動車の普及で、道路整備が間に合わなくなり、渋滞でさらなる燃料の無駄を生み、CO2の生成を促進している。
さらに排気ガスに含まれる有毒成分が大気に混ざり、雨となって大地にしみ込み、または川を下り、海へと流れ出る。
オイル成分の流出も無視できない。
道路に落ちるオイルも降雨で、これも水を汚し、採取的には海をも汚す。
洗車ではワックス成分、さらに強力な洗剤も行き着く末はやはり、川を伝わり、海となる。
世界中の自動車はすべての局面で、環境負荷を生み出している。



自動車の社会に対する負荷

渋滞緩和のためと称して、政府、自治体は道路作りに励んでいる。
自動車交通量の削減は頭にないのだろうか?
道路を際限なく作って渋滞が緩和されれば、その便利さからさらに交通量は増えるかもしれない。
道路はどうしても壊れる。
しかしこの維持費は誰が負担するのだろう?
いくら財政難でも、金がないから補修しないというわけにはいかないだろう。
そうなると増税しかない。
そろそろテキトーに道路作りはやめたほうがいい。
そんな負担を増やすより、交通量を削減したほうがずっと効率がいい。

都市の大気汚染の主要な原因は、現在では自動車の排気ガスである。
この大気汚染で毎年世界では300万人の命を奪っている。
さらに交通事故では毎年88万5000人が死んでいる。
自動車利用のもっとも人間の体に影響を与えているのは、その便利さからくる体力の低下である。
歩いて3分もかからない店に車で行くバカがいる。
足がどんどん弱り、心肺機能も低下し、さらに運動不足からくる肥満、それに原因を発したさまざまな内臓疾患と数えればキリがない。
これは健康保険の新たな負担を生み、私たちに保険料値上げという形で戻ってくる
(この点で厚生労働省は国土交通省を非難すべきだ。お互い独立した省庁ならばなおのこと)。
足がどんどん弱れば、この高齢化社会でさらに寝たきり老人が多くなるであろう。
介護保険も破綻確実である。

三陸鉄道開通は沿線住民の悲願であったが、今はどうであろう。
道路の便が良くなり、まず普通の人は自動車に乗り、三鉄などあってもなくてもよい状態ではないのか?
自動車の一般普及は、交通利用手段における利用者移動という形で、公共交通機関に圧迫を加えている。
バスの場合は渋滞増加で二重の圧迫となる。

ワールドウォッチ研究所のレスター・ブラウン氏は自転車利用を勧めている。
一昨年(2000年)に来盛し、やはり自転車利用を強調していった。
このときなぜ、レスター・ブラウン氏は盛岡にきたのだろう?
もしかして???・・・

2000年の春先、宮古市で知事を招いた県政懇談会が開かれ、私は出席した。
何回か発言したのだが、そのうちの一つに三鉄と道路整備の矛盾について述べた。
さきほど触れたが、道路整備促進は三鉄の赤字を生み、結局税金の無駄遣いになるのではないか?と問いただした。
これは現実にそうなるのだ。
全国のローカル線はすべてこの運命をたどるだろう。
これに反論するなら、明確に理論的に理由を述べてもらいたい。
そのときの知事の回答で「県民の福祉のため」とかいう言葉を言った時点で、私はもう聞く耳を持たなかった。
次に関連意見を述べるとき、怒った口調で「レスター・ブラウン著地球白書をよんで少し環境問題を勉強していただきたい」ときっぱり言った。
もしこの発言で世界的著名人が岩手県に招かれて来たのなら、これはスゴイ事ではないか。
名も知れぬ一市民の声が、少しは反映されたことなる。
みなさんも、論理を大事にして、どんどん発言してみたほうがいい。

偶然ならそれはそれでよい。。

先ほど挙げた「道路整備促進は三鉄の赤字を生み、結局税金の無駄遣いになるのではないか?」は政策矛盾の指摘であり、社会にはさまざまな政策矛盾があまりに多い。
整合性のない政策なら誰でも考え付く。
そしてそれで政治家が務まるのなら、私でもあなたでもできる。
そんな人たちに高い報酬を与えることはない。
あらゆる組織の特別職は月給ドロボーである。




ヴァージン原料とごみ

ヴァージン原料とは、未使用なあらゆる原料を指す。
「地球白書」ではヴァージン原料としており、便利な言葉なのでそのまま使う。

大量消費

平均的なアメリカ人で一日に消費するあらゆる製品の原料は101キログラムだという。
これは1ヶ月で3トン、1年間で37トンの消費となる。
さすが、「無駄な消費を美徳とする国民(何かの映画の引用)」である。
資料がないからわからないが、日本人もちょっと少ないだけで似たようなものだろう。
地球上の資源は有限で、今の世代でほとんどの資源を食いつぶし、今後生まれ来る世代は、今の安価で便利な原料を使うことはないだろう。
そしてその消費した残りカスの汚染物質に苦しめられるかもしれない。

この大量消費は大量生産あってのことで、生産技術の進歩がそれを支えている。
経済成長は大量消費なくして成り立たず、また肥大化した統治システムもまた、大量消費無くしては成り立たない。
過去において「所得倍増計画」というのがあったが、これは核家族化を推進し、大量消費を促し、高度経済成長を達成させたものだ。
大家族よりは核家族に家庭を分散させれば、それだけ消費も増える。
しかし経済成長のための大量消費がさまざまな社会問題を生んだ。
もっとも悲惨な現時点の国民的な問題は失業問題だ。
これは急激な成長で生まれた多数の企業が、大量消費の限界から、すでに“ゴミ箱”行きとなる運命にある。
「消費しろ!」と言われても、もうこれ以上消費できないのだ。
私たちは子供の頃、「物は大切にしなさい」「無駄遣いはするな」と親に教育されたはずだ。
決して「いっぱい金を使いなさい」なんて教えられていない。
社会のお偉い様方は何と国民に言っている?
この矛盾を親は何と子供に言い訳するのだろうか?




大量のゴミ
ゴミ問題は大都市ほど深刻になる。
焼却するか、捨てるか、リサイクルかのどれかになるが、最近は分別回収で、市民の側も少し考えるようになった。
家庭での焼却は“ゴミ減らし”の一つの方法ではあるが、ダイオキシンの発生を伴うので、すべてを回収して家庭の焼却を禁止しようという動きがある。
どうせ回収するなら、その熱で発電するなり、温水利用したほうがよい。
この廃熱エネルギーを利用すれば、少しはエネルギー問題の緩和にもなるはずだ。
廃熱エネルギーで、ゴミ焼却と同じくらいのCO2排出分の火力発電エネルギーを補えるようになるかもしれない。

問題は燃やすことのできないゴミの行き場だ。
おそらく大都市のゴミは地方へと移動してくるだろう。
そうなる前にリサイクルできる素材ですべての製品を作るようにすればいいのだ。
すでに産業廃棄物は青森県との県境をまたいで捨てられ、問題となっている。
身近なところでは、宮古のマルイ舗装の事件も、実は県外から廃棄物を“買っていたのではないか”という噂もあるほどだ。
まさか関連があるとは思えないが、サケの回帰率が近年非常に悪い。
時期的にこの両者が一致しているのは偶然であってほしい。
もしそうなら、大問題である。

産業廃棄物は必ずでるものであるが、かなりアホくさい産廃定義が存在する。
ごく自然にあるものまで産廃になるのだ。
宮古湾の養殖カキに付着している泥も産廃であるのだという。
海に流して(返して)も自然に対しての負荷はほとんどないだろう。
これと比較して自動車の排出するオイル成分は産廃ではないが、自然に対しては脅威である。

産業廃棄物業者もすべての廃棄物を扱うのではなくて、あらゆる種類に細分化して廃棄物ごとに処理すべきだ。
あるいは特定の廃棄物ごとの専門業者に細分化してもいいだろう。
専門ならそれなりに設備投資もしやすいだろうし、その結果さらにリサイクルが進むかもしれい。


経済成長のための大量消費で、そしてさらに人口増で日本ではゴミはどんどん増える。
それでも消費を煽り、少子化対策に税金を費やす。
ゴミ問題にも日本の人口問題は影を落している。



経済成長の手法の転換
「地球白書1999−2000」ではゼロックス社を例に出して、新しい経済のあり方を提案している。
ゼロックスはいまや、複写機を売るのではなく複写関連サービスを供給するという方針で、自社製の事務用複写機の大部分を賃貸している。
この方針は、製品の耐用年数をできるだけ長くし、部品のリサイクルをできるだけ多くする、ということへの強い動機を生んでいる。
この結果、1997年だけでも3万トンの複写機原料を埋立地に送らずに済んだ。
このようなリース形態は、ヴァージン原料の節約とゴミの排出削減に多大な寄与となる。
さらに雇用問題の解決へとつながる。
製品販売から製品リースへの転換はヴァージン原料に金を使うのではなく、情報や労働力に金を向けることになる。
このような転換こそ、税金を使って仕向けるべきだ。
これで経済が成長するなら、持続可能な成長である。