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読書感想文(本の紹介)
ブードゥー・サイエンス
法学について(副島隆彦・山口宏著「法律学の正体」)
森林を破壊する文明(安田喜憲著「森と文明の物語」)
恐ろしい財産をめぐる兄弟間の争い(山口宏・副島隆彦著「裁判のカラクリ」)
中村修二氏(中村正三郎著「Linux狂騒曲第3番変マ短調作品30〜42」)
つづき(Linux狂騒曲第3番の紹介)
「異議あり!日本の裁判」
村串栄一著「検察秘録」
「日本経済を考えるヒント」を読んで
「日本経済を考えるヒント」のつづき
「裁判の秘密」を読んで
日本の技術
「ヤクザ・リセッション」を読んで
真珠湾に関する3件の読書
田中角栄について
ハリウッドも日本を属国に見たてている?
「正しい戦争」は本当にあるのか?
池田大作解読
利用される学会員
SNICH CULTURE
朝鮮総連
ブードゥー・サイエンス
ブードゥー・サイエンスとは、邪悪な科学のこと。
名付け親は、ロバート・L・パーク。
「ブードゥー・サイエンス」の著者。
日本語訳は、栗木さつき訳「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか」。
永久機関のウソにはじまり、宇宙開発のあり方まで書かれている。
ウソの科学まで信じてしまう脳のことを、この本では、心理学者ジェームズ・オールコックの「信じたがる脳」を持ち出して説明している。
それは、「生き延びる」ための行動の習性を、祖先から受け継いでいただけのものである。
脳は五感から入ってくる情報をつねに処理しつつ、その情報に基づき、身のまわりで信じられるものを増やしていく。
新しい情報が、すでに信じているものと一致すれば受け入れ、矛盾すれば信じない。
そして、この「信じたがる脳」は、それが真実であるかどうかは考慮しない。
「真実である」から「信じる」わけではないらしい。
3万年前のクロマニョン人の頃から、この「信じたがる脳」は変わっていないという。
ニセ薬から代替医療の「副作用」も面白く書かれている。
また、エディー・マーフィー主演の「ホワイトハウス狂騒曲」で描かれている電磁波問題も、あれはウソだ、と説明している。
そして、もっとも唖然とさせられるのは、何と言っても「宇宙開発競争」である。
特にあのアメリカのSDI計画は、もうお笑いの域に達している。
いや、アメリカは世界中の笑いものだ。
なんの成功の保証もない、この科学技術事業に取り組んだ初めての大統領は、レーガンである。
80億ドルもの無駄な投資だった。
再実験すら行われていなかったものを採用したのだという。
国際宇宙ステーションも無駄な事業だと断言している。
これ以前、ご存知のとおり、旧ソ連に「ミール」があった。
ミール内の宇宙飛行士は「生き残るのに必死」だったという。
それほど宇宙は過酷で、宇宙旅行などは、夜寝てから見る夢の一つに過ぎない。
木星や土星などの探査機のような遠隔探査ロボットは、人類のもろい肉体の身代わりで、日々このロボットの性能は向上しているが、人間の体はこの3万年間ほとんど変わっていない。
そして、ミールやスペース・シャトルにおける微小重力の研究で、大きく影響を受けた科学やテクノロジーは皆無なのだという。
ゆえ、宇宙開発、探査、実験はすべて無人で十分だと結論付けている。
この本で非難している科学は、すべてブードゥー・サイエンスで、「信じたがる脳」を利用して金儲けをたくらむ連中を暴き出している。
それが科学者であったり、マスコミであったり、政治家であったり。
これらの事実から、さまざまな教訓をこの本は示している。
最後に私の好きなこの一文を紹介したい。
「われわれは秩序ある世界にくらし、回避することのできない物理学の法則に支配されている」
(ロバート・L・パーク著栗木さつき訳「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか」p88)
(2002年4月29日)
法学について(副島隆彦・山口宏著「法律学の正体」)
掲示板での法学について話ですが、「匿名」さんの言うとおり、私の書き込みは「にわか知識」です。
法学は大学の一般教養課程に組み込まれており、私も選択しましたが、全くわかりませんでした。
当然単位はとらず(途中であきらめ)、別のを履修しました。
「法律学の正体」の著者を明かしますと、副島隆彦さんと弁護士の山口宏さんです。
どちらも法学部出身で、山口さんの方が「左」に傾いている、と紹介されています。
この正反対の考えの両者が共著していること自体、特筆すべきことで、現行の法律学の問題点を、実際の条文を例にして指摘しています。
掲示板で私が出した
>なぜ、「法的構成」にそんなに頭を悩ませなければならないのか?
に対する答えは、外国からの法律の継受(字の通りの意味です)のため、あまりに日本の生活様式、習慣、文化などと、実際の法典との乖離がありすぎるからであり、それによって「法的構成」つまり、条文解釈が非常に難しくなるからです。
その勉強にあまりに時間を費やしすぎて、「価値判断」の領域では政治学のプロの学者にかないません。
こう考えれば、法曹界の人間がどんなに頭が良くても、その道の専門家にかなうわけがないというのは、道理です。
法学部でやっている勉強の大部分は、正しくは「法律解釈学」だそうで、民法、刑法、憲法、商法、訴訟法等に分かれていて、それを勉強するだけで大変なようです。
法律学の解釈技術にも、文理解釈、限定解釈、拡張解釈、類推解釈、反対解釈、立法の過誤の6つがあるようで、字を見ただけで、「これは確かに複雑」と感じるのではないでしょうか。
したがって、一般的な社会現象に対する認識、すなわち「価値判断」の基準になるものは、排除されてきたというのが現実のようです。
法曹界関係者の実務も、これらの事実から、大変なことはわかります。
掲示板では、憲法判断について、「司法消極主義」に触れましたが、なぜ消極主義なのか、という理由は、実際に実行されそうもない憲法判断をしても、裁判所の権威が傷つくだけだ、という内部的な事情にあるようです。
ここでもやはり、先にあげた理由が密接に絡んでいる、というのは、ここの読者ならもうわかると思います。
この本では、最初に結論のようなものを書いています。以下に挙げます。
ヘルマン・フォン・キルヒマンという19世紀のドイツの法学者がいまして、「法律学の学問としての無価値性」という論文をすでに書いてしまったんです。法律学の中核にあるのは、いわゆる法解釈学ですが、解釈学なんて要するに、条文が改正されて、研究の対象となる法典が大改正されてしまえば、今まで蓄積されてきたものが全て無意味になってしまう、と彼は言うわけです。また、フレッド・ローテルという20世紀のアメリカ人は、れっきとしたエール大学ロー・スクールの正教授でありながら、「禍いなるかな、法律家よ」という著作をものして、法理論というものが、いかに欺瞞に満ちたものであるかを情熱的に語りました。こちらのほうはアメリカですから、もともと法典が存在しなかったにもかかわらず、です。
(「法律学の正体」p12)
次に、「法律学の正体」の中で紹介している、川島武宜という法学者の書いた「ある法学者の軌跡」と星野英一「民法論集第一巻」からです。
そもそも私が民法学の研究室に入ったころは、「法律学」とはどういう学問なのか、私はよく分かっていませんでした。こういうことは、恐らく自然科学とか医学・工学とかの研究者になろうとする人々には、ないのではないか、と思います。私は、一方では、法社会学に対する興味を持ちながら、他方では、徹底的に伝統的な法解釈学のわくの中で民法を研究してゆこうとしていました。ところが、いつも私の心の中には、伝統的な法解釈学に対する一種のもの足りなさがありました。それは、今まで何回も言及したことですが、「法解釈学」は、私のもっていた「科学」というもののイメージとは甚しくちがったものであったからです。そうして、私は研究生活のはじめからこの「物足りなさ」、或いは「問題」に悩まされつづけたのでした。(「ある法学者の軌跡」)
(前掲書p15)
利益考量や価値判断の面においては、法律家に特に権威があるのではない、ということである。法律家なるが故の権威は、法律の技術的側面、例えば論理の進め方とか、概念・制度の沿革的な意義とか、いわゆる理論構成の面についてだけのことである。利益考量・価値判断については、法律家といえども、一市民として、または一人間としての資格においてすることしかできない(「民法論集第一巻」)
(前掲書p33)
次にアメリカの裁判事情の一例の引用。
イギリスやアメリカの法律家というのは、ドイツの法学者たちの精緻で複雑でやたらと難解な論理体系に比べれば、極めて粗雑な理論体系を持っているだけなわけですけれども、結構それでうまくやっている。アメリカの裁判官の書く判決文なんか、そのあまりの突拍子のなさに、日本人は驚いてしまうでしょう。「正義感」が全面にあふれた簡潔な文章です。たとえば「加害者は、被害者宅に一年間毎週一回スープを届けるように」というようなものまであるわけですから。
(前掲書p38)
最後に、この本の目的を引用して終わりにします。
この本は、大学の法学部で習う法律学が、どのような内容になっているのかを、法学部以外の経済学部や文学部などの他の文科系の学部を出た人や、あるいは理科系の学部を出た人々向けにも書かれている。法学部に縁のない人々は、書店に法学(法律学)関係の難しそうな背表紙の専門書がたくさん並んでいるのを見て、それがいったいどういう学問なのか、と思っている。この本は、その疑問に答えようとして編まれた本である。
これまで法律学を、とても自分の手に負える知識ではない、と諦めてきた人々がこの本を読むと「なるほど、そうだったのか。自分が素人考えで抱いていた考えも、一部は当たっていたのだ」という気持ちになるであろう。この本が読者として想定する人々は細かくは次の三種類の人々である。
@これから法律学の勉強をしたい、あるいはしなければならないと思っている学生の皆さん。あるいは公務員試験や宅地建物取引主任者試験などの国家資格試験を受けようとする人たちが、法律学(六法全書)の全体像を把握するための、導きの書として役に立つであろう。
A冒頭で述べた非法学系の人々で、読書を愛する人々で、法律学に対しても、それなりの見識を持ちたいが、これまで適当な入門書に恵まれなかった人々。さらに加えて各々の専門分野において相当の教養をお持ちの文科系知識人の皆さん向けにも、知識と思想の水準を落とすことなく、楽しんでいただける。
Bそして最後に、法学部を卒業したにもかかわらず「法律学とはいったい何なのだ}という謎がいっこうにわからずに、社会人になってからも長らく疑問を抱き続けている人々、あるいはかつて法律学の勉強に嫌気がさした人々にも読んでいただきたい。「おまえ、法学部出だろう。こんなことも知らないのか」という、いわれなき雑言や不当な侮辱をうけたことのある人々と疑問を共有したい。
この本は、現状の日本の法学教育に対する渾身の批判の書でもある。著者二人の青年期のほとんどを賭けて流れ去った大量の時間への追憶が込められている。故に、この本はその場の思いつきが述べてあるような単なる対談集ではなく、息長く読者を持ち続けるべき本であるという信念のもとに編まれたものである。
(前掲書「まえがき」)
(2002年5月4日)
補足説明
「匿名さん」とはネット界では「青い鳥」と名乗っていて、発足当時の掲示板を荒らした者です。
詳しくはこちらを参照ください。
(2003年12月6日)
森林を破壊する文明(安田喜憲著「森と文明の物語」)
古代文明が森林を破壊してきた事実を、環境考古学から説明した安田喜憲著「森と文明の物語」を紹介したいと思います。
最初に著者の紹介をします。
重要なので。
安田喜憲(やすだよしのり)氏は、現在、国際日本文化研究センター教授で、1980年、自然科学と人文科学(?)の学際的領域として環境考古学を提唱しました。
世界各地の文明の盛衰を、環境変動との関わりにおいて調査研究し、地球環境への提言は高い評価を得ているようです。
この環境考古学は、花粉分析から行われています。
花粉は、スポロポレニンと呼ばれる、化学的にたいへん強い化合物で構成された膜を持っています。
それゆえ、花粉が、酸化分解やオゾンの影響を受けない湖底や湿原のようなところに落下すると、何百万年でも腐らないで残り、もとの形を保ったまま、土の中で永遠に眠り続けるようです。
地層は、より下のものほど古い年代ものであるという地層累重の法則と、放射性炭素同位体測定法とをあわせて考察し、どんな種類の花粉がどれくらい含まれているかを見ることによって、過去の森の変遷を明らかにすることができます。
植物の分布は、気候や土地の条件に強く支配されていますから、森の変遷を明らかにすることによって、気候や地形の変化をも読みとることができるようです。
一般に知られている古代文明の栄えた地域を流れる川といえば、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川などが挙げられますが、オロンテス川周辺でも、同じように高度な文明が栄えたようです。
オロンテス川は、レバノン山脈に水源を持ち、シリア北部を流れて、トルコのアンタキアで地中海に流れ出ます。
この地域には、レバノンスギというマツの仲間の針葉樹が鬱蒼と茂り、たくさんの森を形成していました。。
しかし、この周辺の文明地域では森が少なく、レバノンスギの争奪でさまざまな争いが起こったこともあって、最後には、レバノンスギは絶滅寸前にまで追い込まれます。
現在は見事なハゲ山に囲まれて、たった直径200メートルの森しか残されていません。
ギリシャ世界をみますと、ミケーネ文明、ミノア文明とも、森林破壊が原因で、文明は滅びました。
ギリシャの地で「オリーブ革命」が起こったのは、この森林破壊がもととなっています。
各文明の隆盛によって人口が増大し、その人口を養うため、森林を切り崩して耕地を作り、その結果、燃料としての木の価値、材料としての木の価値がものすごく高くなりました。
人口増大が、その需要をさらに押し上げた結果、森林はあっという間になくなった。
土壌は流失し、養分は失い、土地は、耕作に適さない土壌となってしまった。
そこで登場するのがオリーブです。
オリーブは、表層土壌の発達の悪い、ガラガラの岩が剥き出しになった荒地でも、生育できる作物だからです。
ですから、ギリシャ文化が石の文明と言われているのは半分誤っていて、実は、この文明の起源は、木の文明、森の文明です。
この森林消失の間に、資源争奪の戦争が多数あったことは言うまでもありません。
地中海には魚がいないそうです(少ないというのを形容したのだと思います)。
それは豊かな森林が失われ、豊かな土壌が全部海に流れてしまい、あとはプランクトンを育てるような栄養分を含んだ水が地中海に流れなくなったから。
海を守るためにも、森林は絶対に必要である、ということを歴史は示しています。
大航海時代になると、大海を越えて森林資源の争奪戦、または耕地確保のための森林破壊が地球規模で起き、現在も続いています。
これによって先住民、黒人奴隷の悲劇も起きました。
キリスト教的世界観の下のヨーロッパ社会では、人間の自然支配を肯定しました。
一方、日本の農耕社会の地域システムの核となった鎮守の森は、神の宿る所とされ、時には森そのものが神とされたこともありました。
ここから森への畏怖が生まれ、日本の森が維持されてきた一つの理由となっています。
この自然に対する見方の違いは、動物観の違いにも表れています。
中世の説話や絵巻物に、動物がしばしば登場します。
ヨーロッパでは人間が動物に変身し、しかも動物に変身した人間は化け物となって、恐怖の対象となりました。
ところが日本では、動物たちが人間に変身し、鶴の恩返しのように、しばしば人間に幸福をもたらすものとして描かれています。
日本の農村の地域社会は、古来から自然と共存してきたと言ってよいでしょう。
イースター島の悲劇(イースター島の教訓はこちらを参照)はあまりにも有名ですが、ここのモアイの像に関することもこの本には書かれています。
ミノア文明の繁栄したクレタ島やこのイースター島のように、島の生命線は森です。
その生命線を食いつぶした時に、文明は崩壊しました。
この島を地球に置き換えて考えても同様でしょう。
それほど森林は貴重です。
日本の森林はまだたくさん残っています。
が、日本の総人口を賄うだけの森林であるとはとても思えません。
さまざまな批判の的となっている外材依存の恩恵があるから、日本の社会が維持されているといっても過言でないでしょう。
この本を読むことは、自らのライフサイクルを考える良い機会だと、私は思います。
また、人口が増えすぎて資源を食いつぶすわけですから、政府の行っている少子化対策というのはどうもおかしいように思います。
人口が減少しても社会を維持できるシステムを構築するほうが重要ではないでしょうか。
(2002年6月8日)
恐ろしい財産をめぐる兄弟間の争い(山口宏・副島隆彦著「裁判のカラクリ」)
兄弟が複数いる場合、家を継ぐのは、たいていは長男で、つまり親の面倒を死ぬまで見るのも長男(または長男夫婦、長女夫婦)です。
人間の長寿化が、特にこの跡継ぎ夫婦にとって、問題となることが多々あります。
そこに財産をめぐる他の兄弟からの圧力があるなら、跡継ぎになることがなんと割りにあわないことか。
今日は相続をめぐる遺産分割裁判を一つ紹介します。
長男、長女の方は必見です。
山口宏・副島隆彦著「裁判のカラクリ」からの抜粋転載です。
なお、文中の1人称の「私」は山口宏弁護士です。
亡くなった88歳のおばあちゃんの面倒を見てきた長男が被告で、次男と長女、次女、三女の4人が原告だった。この長男夫婦は東京・世田谷の奥沢に住んでいた。土地家屋の名義は死亡したおばあちゃんの名義で、45坪の敷地に、2階建ての昔ながらの日本家屋が建っていた。まだ周辺にはダイコンやネギが植えてある畑が散在していた1953年に、おじいちゃんとおばあちゃんが購入したものである。
長男夫婦は、おじいちゃんとおばあちゃんに望まれて結婚1年後から同居するようになった。おじいちゃんは晩年、痴呆を発症させたが、嫁である長男の妻は献身的に介護した。7年前に91歳で亡くなったときには、おばあちゃんからも心から感謝された。
ところが、おじいちゃんが亡くなった途端、生涯のパートナーと失ったためか、おばあちゃんの言動がおかしくなり、ときどき徘徊するようになった。
「満足にたべさせてもらえない」「私だけ除け者にする」と近所の昔なじみのお年寄りに愚痴をこぼすようになった。もちろん、実の娘にも涙声で訴えるものだから、長女や次女などは嫁ぎ先から頻繁に実家へ立ち寄るほど心配した。
長男の妻はおばあちゃんの豹変にとまどわざるを得なかった。
「ボケがきているのだから、我慢していままで通り対応していくしかありませんよ」
医者からはこうアドバイスされ、自らも納得させて介護に努めたが、フラストレーションはたまるばかりだった。長女や次女などの小姑たちと、日に日に険悪な関係に陥っていったのだから、当然といえば当然だ。
そのおばあちゃんがインフルエンザをこじらせ、突然、死亡したのは4年前の2月だった。長男夫婦が入院先の病院へ駆けつけたときは、もう亡くなった後だった。臨終に間に合わなかった次男、長女、次女が、怒りをこらえながら通夜と葬式に参列した。
長男夫婦が驚愕したのは、葬儀から4ヶ月後の親族会議の席だった。
「おばあちゃん名義の遺産をきちんと分けてくれ」と長女、次女、次男、はては疎遠だった三女も押しかけてきて要求したのである。
遺産といっても、両親と同居していた長男夫婦が住む土地と家屋だけだった。バブルがはじけたとはいえ、自由が丘周辺は一坪200万円はくだらない。土地は45坪で、評価額は1億1千250万円であった。
現在、日本における遺産相続は、子どもの数に従って均等にわけることが法律で定められている。遺産相続を自ら放棄しない限り、親の遺産は子どもが平等に分割しなければならない。
長男夫婦にとって、遺産を均等に分割せよという他の兄弟の要求は理不尽そのものだった。おじいちゃんとおばあちゃんの面倒を亡くなるまで見たのは自分たちであるし、他の兄弟は実質的になにも手伝ってくれなかった。気が向いたときだけ実家に立ち寄り、おばあちゃんのご機嫌をとりむすぶだけで、金銭的な援助も皆無だった。自宅にしても老朽化が進んでいたから、ローンを組んで大改築したのは自分たち長男夫婦である。
かつては両親の家だったかもしれないが、現在のそれは紛れもなく自分たちが苦労して建てた自宅だった。
遺産を均等に分割するには、おばあちゃん名義の土地を売らねばならない。そうなればいま住んでいる自宅から立ち退かざるを得ない。改築のローンも払い終えていないのに、こんな理不尽なことがあるかということで長男夫婦は私のところに相談に来た。ところが、これは裁判になれば最初から負けるのは目に見えていた。
親の面倒などを見た子どもに配慮し、遺産分割の際に他の子どもより多めに分けることが法律で認められている。この多めの遺産分割相当分のことを「寄与分」という。現在、日本の裁判所が認める寄与分としての通常の相場は、大体、遺産総額の約20%が上限である。これをどんなに多めに認めるとしても、30%には届かない。
この遺産分割請求訴訟では、30%近い寄与分が認められた。裁判官は年老いた両親の介護を献身的に行った長男側に、最大限の配慮をしたのだろう。
しかし、それでも長男夫婦にとって、総額7,000万円近い大金を現金で他の兄弟に支払わなければならない。それができないときは、土地を売らざるを得ない。売った現金を、遺産分割のカネとして各々に渡さなければならない。
決定を下した家庭裁判所の裁判官にしてみれば、「普通の相場を超えた寄与分を認めてあげたのだから、あなた方の勝ちですよ」と内心思っていたのかもしれない。だが、長男夫婦にとっては、そんなもの勝ちでもなんでもない。自宅を手放すことに変わりはないからだ。
長男夫婦は徹底抗戦に及んだ。いつまでも土地家屋を売りに出さず、そのまま居座ることに決めたのである。
ところが、次男や長女たちは自らの相続分のカネを求めて裁判所に強制執行を申し出た。すでに遺産分割についての決定は下りているから、なす術はない。
長男夫婦は自宅を売却し、埼玉へ引っ越したのはそれから半年後であった。
裁判は、果たしてこの長男夫婦と次男、長女らの争いを解決したのだろうか。解決というのが、長男夫婦とその他の兄弟姉妹との関係を好転させることであるとしたら、裁判はなにも解決のために寄与しなかったといわざるを得ない。
(「裁判のカラクリ」p38)
このあと山口弁護士は、「この遺産分割問題は兄弟間の心の病であり、裁判で解決するものではない」と言っています。
詳しくは、この本を参照してください。
兄弟姉妹とは、こんな骨肉の争いをするためにあるのでしょうか。
現代の風潮である「もらえるものなら、何でももらう」という考えが、この争いの根底にあると私は思います。
また、生活している空間を失うような財産は、そこで生活している間に限り、相続争いの対象とならないような法整備があっても良いように思います。
(2002年6月22日)
中村修二氏(中村正三郎著「Linux狂騒曲第3番変マ短調作品30〜42」)
今日は、ある優秀な技術者の講演を紹介します。
これは「月刊Linux Japan」の中村正三郎氏連載の「Bravo! Linux」2001年2月号で紹介されたものですが、私の場合、中村正三郎著「Linux狂騒曲第3番変マ短調作品30〜42」で読んだものです。
日本の技術者は割りに合わない仕事をしている、ということですが、これは副島隆彦さんも指摘しています。
理系の技術者はその功績にも関わらず、恩恵を受けていない、今の日本は、文系人間に支えられたのではなく、理系人間に支えられて、世界に先例のない急激な進歩を遂げたのだと。
私のWebサイトにあまり関係ありませんが、それは問わないでください。
たまにはいいじゃないですか。
ってなことで以下、抜粋転載します。
さて、もう一つの目玉は、日本企業から、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)校に転身した中村修二氏の講演でした。
中村氏は、世界中の研究者がたばになって研究してもダメで、20世紀中の実現は不可能とさえいわれた青色発光ダイオード(LED)や青色レーザ(実際には紫色レーザだそうです)を実用化して、世界をあっと言わせた人です。青色LEDの実用化は、ノーベル賞級の発明と言われています。中村氏は、世界初の高輝度青色LEDを開発するまでの苦労を語りました。
青色LEDができると何が画期的なのかといえば、すでにあった赤色LEDと緑色LEDと一緒に使えば光の三原色が揃うので、LEDで白が表現できるのです。白が表現できると白熱電球の代わりになります。しかも効率は電球の2倍だそうです。さらに効率と上げると蛍光灯とも置き換えることができるそうです。つまり、光源を全部半導体化できるのです。半導体ですから寿命は半永久的です。しかも低消費電力にもできます。以上のような理由から、青色LEDができたことは画期的なことだったのです。
関連して面白い話がありました。交差点にある信号機の電球の寿命は10年くらいだそうです。LEDは半永久的でしかも電力は10分の1です。環境保護にもいいというので、欧米ではどんどんLED式のものに信号機を置き換えているそうです。しかし、日本は警察などの天下り団体が信号機関連の利権を握っていて、信号機会社は毎年電球を取り替えることで儲けているんだそうです。それで、日本ではLED信号機への置き換えがなかなか進まないとのこと。ありがちな話です。
さて、中村氏の偉業に世界があっと驚いたのは、不可能を可能にしたからだけではありません。当時、中村氏が勤めていた日亜化学工業という会社は、世界的に全く無名だったからです。徳島県の中堅企業だったせいもあって、世界どころか日本でも、一部の専門家を除いては、全くといっていいほど無名な会社でした。
なぜ、そういう会社に就職することになったのか。
中村氏は学生結婚で子供ができました。とにかく働かなければならず、どこでもいいから探した結果が日亜化学工業だったそうです。当時の気持ちを、「仕事や研究は捨てた。家庭を取った」と表現していました。
最初の仕事はガリウム・リンの結晶を作ること。中村氏は大学での専門は電子工学で、全く畑違いです。しかし、やらざるを得ません。会社はえんぴつ1本、消しゴム1個にも課長のサインがいるほど金の管理がシビアで、開発予算もなく、必要な装置は全部自分で作ったそうです。
そういう環境下でありながら、3年で製品化にこぎ着けました。そして、研究・開発・製造から営業まで、全部やったのです。後で考えるといい勉強になったとのことでしたが、なかなか売れなかったそうです。質は他社と同等なのに、ネームバリューがなかったせいだったと述懐していました。
結局、10年間で3つの製品を作ったけれど、なかなか売れません。売り上げが芳しくない以上、市販の5,000万円も6,000万円もする装置は買えません。そこで、やはりそういう装置を自分でつくったそうです。この辺は、もう執念ですね。
「金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗をかけ」とは、よくいわれることですが、10年間、必要な装置を自作していくのは、並大抵の根性ではありません。しかし、こうやって装置を独自開発したからこそ、青色LEDを製品化した後も、世界が数年経っても追いつけなかったとのこと。独自の特許でいろいろと保護しているので、他社は同等の装置を作ろうとすると、特許に引っかかってしますのです。
さて、こうやって10年間、会社の要求通り、いや要求を上回るような仕事をこなして会社に滅私奉公してきたのに、上司は文句ばかり言うので、中村氏はついにキレました。
キレてどうしたかというと、もう、会社のいうことなど聞かず、自分のやりたいことを思い通りやって辞めてやると決めたのです。
その「思い通りにやりたいこと」というのが、青色LEDの開発だったのです。
上司に青色LEDをやりたいといったら、ダメだといわれました。頭にきて、トップに直訴したら、なんとすぐにOKが出て、開発がスタートしました。さらに、10年間ほとんど研究開発の予算を使わずにやってきたのだから、今度は数億円の予算をくれと要求しました。なんとこれもOK。アメリカ留学もOKになったそうです。オーナーは中村氏に密かに期待していたようです。
念願かなって中村氏は、フロリダに留学するのですが、ここで決定的な体験をします。
誰と会っても何よりもまず、「ドクター(博士号)を持っていますか?」「論文を書いていますか?」と訊かれるのです。中村氏は、ドクターも持っておらず、論文も書いていません。会社は秘密主義で、論文や学会発表は禁止だったからです。
「ドクターなし」「論文なし」では、研究者扱いはされず、手伝い扱いで、学生からも馬鹿にされたそうです。この強烈な体験から、帰国後の中村氏は、論文を書き、会社に内緒でこっそり提出することを決めます。
以後、中村氏の反逆が始まります。
青色LEDの材料には、セレン化亜鉛(ZnSe)と窒化ガリウム(GaN)があって、ZnSeが有望だと思われてたので世界中はZnSeのほうをやっていて、GaNをやっているのはほぼゼロだったとのこと。中村氏は、ZnSeだと仮に成功しても他社からすぐに追いつかれて儲からないだろうと判断していました。といえば聞こえがいいですが、実際はもうヤケクソでした。
ここで中村氏は、「非常識なことに挑戦するには、非常識な精神が必要なんですから、その意味でヤケクソは非常に大事です」と強調しました。
以後、午前中は装置の改良、午後は実験で、会議や電話は一切無視した生活が始まります。最低限以外は、論文や特許を意図的に読まないことにしました。これが、いくつもの独創を生んで重要な特許につながりました。当時、会社からは特許を出したら1万円、成立したら1万円をもらえたそうです。しかし、いま会社はその特許で何百億も稼いでいるのです。
中村氏は、会社に内緒で英語の論文も発表していたり、青色LEDの開発で有名になったこともあって、国際学会に呼ばれるようになります。そこで出会った関係者から収入を訊かれるので明かすと、これだけの業績を上げればアメリカなら億万長者なのにあまりに安いので、「奴隷の中村」と呼ばれるようになったそうです。
会社は窒化ガリウム研究所を作ってくれて所長にしてくれたそうですが、実際には部下はゼロ。つまり、いくらすごい業績をあげているとはいえ、会社のルールを無視して反逆を続ける中村氏を会社はよく思わなくなってきて、追い出しにかかったようなのです。
給料のこともあるし、1999年の夏、アメリカに行きたいと家族に話したらOKが出て、アメリカの教授に相談したら10大学、5企業からオファーがありました。ちなみに、日本企業からのオファーはゼロとのこと。
大学からのオファーは、学長を越える年収と、講義もしなくていいという条件だったそうです。
企業のオファーは報酬のゼロの桁が文字通り桁違いだったそうです。今度、プロ野球のイチロー選手が大リーグ選手に朝鮮しますが、彼の日本での年棒5億円を軽く抜く額の提示があったようです。アメリカでは、会社の株価が上がれば、巨額の報酬を手にできるストックオプションが盛んで、ベンチャー企業の社員で、株式公開によって何十億も手にする人がけっこういます。
そういう世界と目に当たりして、中村氏はある企業にほぼ決めたそうですが、企業に行くと企業秘密を守るトレードシークレット法で訴えられる可能性があると指摘され、その企業への移籍は断念します(実はカリフォルニア州では大丈夫だそうですが、そのときは知らなかったとのこと)。それで、住みやすいサンタバーバラにあるカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)に決めたとのことでした。
アメリカの大学は、ベンチャーと連動しています。多くの大学の先生は、自分で会社を持っていて、自分は顧問になって、学生を社長や社員として使っています。
つい先日、導電性プラスティックの業績でノーベル化学賞になった筑波大学の白川秀樹名誉教授は、今度定年だそうですが、失礼ながら億万長者ではないでしょう。しかし、アメリカなら、白川先生クラスは当然数十億円は稼ぐ億万長者であり、自分で会社を持っていれば、生涯現役で、予算を使いまくって研究とビジネスをやれます。この彼我の差は何だろうというのが、中村氏の問題意識です。
「日本では優秀な学生は、大手企業に永久公務員のように行くが、アメリカでは優秀な学生ほどベンチャーに行き、大企業にはベンチャーで10回ぐらい失敗した奴が行く」と中村氏は語っていました。
中村氏は言います。
「技術者のレベルは日米同等だが、収入は10倍も100倍も違う」
「日本は社会主義」
「アメリカでは自由があり、できる人は4年か5年で辞めて次へステップアップする」
「日本のサラリーマンはどんどん会社を辞めるべき。優秀な奴がどんどん辞めれば、会社も少しは考える」
「非常に独創性のあるものは、ベンチャーにしかできない。独創性は非常識によって生まれる」
「日本の教育、特に大学入試はサラリーマンという奴隷を作る教育。大学入試を廃止しないとダメ」
最後に日本のいい面としてチームワークを挙げ、「日本は製造面ではアメリカより優秀。それはチームワークが必要とされ、ばらばらのアメリカと違って、日本はチームワークがいいからだ」と締めくくりました。
(「Linux狂騒曲第3番」p50)
今日は長文紹介ですみませんでした。
この後も話はあるんです。
つづきは次回。
(2002年7月9日)
つづき (Linux狂騒曲第3番の紹介)
つづきのついでに、「Linux狂騒曲第3番」の紹介もします。
この本は前回でも触れましたが、「月刊Linux Japan」の中村正三郎氏連載の「Bravo! Linux」を単行本化したものです。
シリーズもので、すでに「Linux狂騒曲」、「続・Linux狂騒曲」と株式会社ビレッジセンター出版局から出版されており、その第3弾です。
シリーズものは最初から読みたいタチなのですが、全部買ってがっかりすると金の無駄遣いになる感じがしたので、最新のものを読んでみました。
ところが、なかなか読める。
面白い。
PCに疎い私でも随所に分かる文章がでてきます。
当然、専門的でチンプンカンプンの用語がたくさんでてきますが、それでも”買い”です。
前2冊も買う予定です。
コピーについても興味深いことを書いていて、Linuxがソフト業界をも揺るがしていることに触れています。
Linuxの進歩の方向次第では、コピーの善悪すら、逆転する可能性があるのではないか、と私は思えてきました。
Linuxを邪魔者扱いしているMS(マイクロソフト)ゲイツ氏は、「オープンソース自体が経済システムを破壊する」、と発言したらしいですが、彼の言う経済システムは、MS独占のシステムというだけで、彼の言葉は聞く価値がないということのようです。
確かにそのとおりで、現在の経済を含めた政治システムというか社会システムが、全くゲイツ氏の言う経済システムと同様になっています。
Linuxの登場で、もし、オープンソースが社会一般の通念となるならば、これは今の密室政治などは一掃されるかもしれません(飛躍のしすぎですね)。
まあ、それだけでは、私が指摘している最悪の利益誘導はなくなりませんけど。
前座が長くなりました。
最初に”つづき”からです。
前回紹介しました中村修二氏は、元の勤務先である日亜化学工業から特許侵害で訴えられました。
特許の侵害と秘密情報の不正流用が争点だそうで、著者は次のように言っています。
巨額の金の動く最先端技術の分野では、細心の注意を払って移籍しても、こういう訴訟に巻き込まれるのだなあと、単に研究をやっていれば幸せなんてノンキなことはいってられない世界であることを改めて感じますね。
日本でも大学の研究を活発化させるため、企業と組んで特許を実用化する流れが盛んになってきましたが、研究者は大金持ちになれる可能性と共に、訴訟の矢面に立たされる可能性もあることを、十分意識しないといけませんね。
脱線しますが、これを聞いて思ったのは、秘密情報の不正流用というけれど、頭の中に入っているノウハウや情報まで、訴えの対象になるんだろうかということ。もし、そうなら、元の会社に脳を置いていかないといけませんね。
(「Linux狂騒曲第3番」p104)
やはり研究者は経営陣の餌食になるしかないのでしょうか?
理系人間は文系人間より劣る?と思ってしまう文章ですね。
なんだかんだ理屈をつけて法律をつくるのは、やはり文系の人間ですから、どうにもなりません。
この本には、紹介したいのがたくさんあるんですが、少しだけにします。
過去の歴史において、東洋の陶磁器がコピーされ、西洋に渡っています。
逆に今は、たとえばヴィトン、グッチ、シャネルといったブランド品は、コピーすると問題になります。
この比較考察も面白いもので、あとは読んでください。
過去の東洋の陶磁器は、実はオープンソースと言うことができるんですね。
コピーを重ねてデザインを冒険し、それが良いものへと発展していく。
冒頭に書いたように、Linuxの発展とコピーは全く無縁ではなく、そこにはオープンソースという概念が介在しています。
著者はなかなかおもしろい発想をする人で、最後のほうでインフラ整備は、何の分野においても、天皇家を使え、とははっきり言ってませんが、これも事実の示すとおりで、天皇や皇太子が歩くところはすべて道路は整備され、目につくところはきれいになります。
天皇家の方々はきっと日本中すばらしくきれいで、環境問題は存在しないと思っているかもしれません(言いすぎです、反省します)。
で、皇太子がノートパソコンを常時携帯して全国行脚すれば、無線LANは瞬く間に使えるようになるのではないか、と著者は政策提言しています。
(2002年7月10日)
「異議あり!日本の裁判」
この本は池本美郎氏の書いたもので、この方は検事を退職し(いわゆるヤメ検)、弁護士に転身しています。
ゆえ、法曹界全般に言及し、積極的にどこが悪いのかを指摘し、提言しています。
さて、みなさんは次の記述をどう思うのか?
多いと思うのか?少ないと思うのか?
そして、そのあと何を想像するのか?
日本の刑事裁判では無罪判決は0.1から0.15%の間だ。
(「異議あり!日本の裁判」p17)
そのあと本書では、「裁判所は信用できない」、「警察は信用できない」と具体的な事例を挙げて続けています。
いったん起訴された刑事裁判を、覆して勝訴するのは非常に難しい、ということを示すこの数字は、副島先生の「法律学の正体」の「価値判断が先に決まって、それから条文解釈をする、法的構成をする」を証明しうるものです。
「異議あり!日本の裁判」では、裁判官の資質を非常に疑問視しています。
そう、裁判官の価値判断が狂っているから、無罪判決率が非常に低いと結論付けることができます。
どうして裁判官の価値判断が狂っているのか?
それはやはり「法律学の正体」で書いています。
そこでこの池本弁護士の場合は、具体的にこう記述しています。
私は異論や強い反対意見のあることを承知であえて言うが、法律家には数学的な思考が重要であり、法学部受験の必須項目に数学を含めなければならないと考えている。某有名弁護士は法学部に数学は必要ないと強調していたが、私はまったく正反対の見解である。
数学のどの法則やどの定理が法律実務家に必要だというのではなく、ある一定レベルの数学の理解力や思考形態が必要だと思う。法学が文系だから数学、理科は必要ないというのではなく、法学も社会科学である以上、少なくともある一定レベルの数学的、理科的思考能力が必要である。要は文系と理系のバランスの取れた理解力が必要なのである。
たとえば刑事訴訟法には「事実上推定された事実」という概念がある。これはAという事実から自動的にBという事実の存在を推認することが一般的に極めて合理的かつ確実であると考えられる場合、このBが事実上推定された事実に該当する。従ってA事実が証明されれば、新たな証拠を要せずにB事実が証明された扱いとなる。そして、このA事実からB事実の存在を認定する課程に、ここでいう数学的思考能力が要求されるのである。
今、わが国では法政策として法律家の数を激増させようとしているが、そんなことをするとこの数学的思考のない者が裁判官になる弊害がもっと顕著となろう。真に需要なのは裁判官や弁護士といった法律専門家の数の増加ではなく、裁判官に求められている最低限の素養を備えた人物がその職にいるか否かということだ。
(前掲書p23)
裁判官をボロクソに書いているこの本を読むと、誤認逮捕、誤認起訴されないことを願ってやみません。
また、政治に対する言及も考えさせられます。
今、日本道路公団の民営化が行われようとしていますが、池本さんは破産法から民営化反対を導いています。
読めばなるほどと思う内容です。
民営化してその会社が破産したとしても、破産法に基づいて道路を解体できるかどうか、という視点から見れば、それは否であることは誰でもわかります。
結局、国が道路を維持することになるでしょう!
しかし、やみくもに道路を延々と作るわけにはいかない。
この道路に関しては、はっきり増税で対処すべきことは、当サイトで書いています。
民営化はすべきでない、と私はこの本を読んで結論付けます。
本当はお役人、政治家がしっかりしたものの見方をして、それを国民に説明し、実行すればいいのでしょうが。
お役人、政治家の資質も問題で。
あれ?
結局そうなると、もともとの教育が悪いっていうことになります。
さらにアメリカのエゴによる世界支配にも苦言を呈しています。
最後に一つの文章を転載します。
力強い文章です。
読者各自自分なりに考えてください。
(検事時代:hajime注)米軍基地の所在地に赴任し米軍とじかに接したからこそ、歴史認識を新たにすることとなった。国内に外国たる米国の軍隊が堂々と駐留しているのが、いかに異様なことであるのか。歴史的にみて、わが国が今ほど屈辱の時代はないと実感したのである。日本の歴史上、他国の軍隊が国内に駐留しているのは現代においてほかにない。後世において現代の日本が屈辱の時代と、歴史評価される気がしてならない。
政治家は日米安全保障条約があり、日本の安全上、米軍の基地が必要だ、それが世界情勢というのだろうが、わが国が滅びようがどうなろうが他国の軍隊に守ってもらうよりはましではないか。
ドイツやその他の国にも米軍の基地があるというが、不謹慎ながらその意味の限りではオサマ・ビンラディンに同感である。私は今、米軍基地が世界中に点在していることを誰も非難しない点で、日本国中が、否、世界中が狂っているとしか思えない。それとも、私が狂っているか。
私は米軍基地が日本から撤収しない限り、太平洋戦争の決着はつかないと考えている。
(前掲書p167)
(2002年12月14日)
村串栄一著「検察秘録」
アメリカ・「タイム」誌は「今年の人」として、内部告発をした女性3人を選んでいます。
9.11テロの事前情報の捜査不備の指摘をしたコリーン・ローリーさん。
エンロン不正取引を指摘したシェロン・ワトキンスさん。
ワールドコム会計不正を内部告発したシンシア・クーパーさん。
自らの職務やプライバシーを犠牲にする覚悟で勇気をもって内部告発したことが評価されたようです。
ちなみに昨年の受賞はジュリアーニ市長。
アメリカの女性3人の内部告発が、たまたまクローズアップされましたが、オモテにでない告発は数知れないでしょう。
本当に私たちが欲しい内部告発は、もっとド派手な、権力者によって闇に葬られている告発です。
たとえば、政界を揺るがすような大型経済事件などは、なぜかキーパーソンが自殺を遂げます。
もったいない。
おそらく今まで世話になった権力者に対しての恩義を感じてのことでしょう。
あるいは、自尊心のあまり生きていけなくなったのでしょう。
しかし、恩義とは?何なのでしょう。
権力をかさにした恩義とは恩義ではありません。
権力構造に組み込まれた道具です。
それを恩義というのは、あまりに“恩義”という言葉がかわいそうです。
ここからは村串栄一さんが書いた「検察秘録」の紹介とします。
どの章もすばらしいのですが、「第5章 傷だらけの特捜物語」がもっとも秀逸です。
この章は、総会屋小池隆一に対する利益供与事件で四大証券(野村・山一・日興・大和)、第一勧銀が摘発され、それに連なる大蔵・日銀接待汚職事件を、検察側からの目でみた感動の物語です。
これらの事件で、自殺者は第一勧銀元頭取、新井将敬代議士、大蔵省関係者2人、日銀理事の計5人です。
彼らの死は非常に残念です。
何も権力の礎になることはなかったのに。
告発すればよかったのに。
さらにこの時期、あらゆる金融機関が破綻しています。
東京協和信用組合、安全信用組合、コスモ信用組合、木津信用組合、兵庫銀行、大阪信用組合、太平洋銀行、武蔵野信用金庫、阪和銀行、日産生保、小川証券、京都共栄銀行、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、コ陽シティ銀行、長銀、日債銀、国民銀行、東邦生命。
金融不祥事を捜査する東京地検特捜部がここで矢面に立たされました。
これらの破綻は、特捜の捜査が原因ではないのですが。
自民党は怒り、盟友国税局との確執・報復も。
最後は、大蔵省の杉井孝元大臣官房審議官にまで捜査が及ぼうとした時に、捜査はストップしました。
この杉井は、大蔵の超エリートで法務省幹部でさえ一目おく存在だったようで、ここで一部引用します。
大蔵省主計局長の涌井洋治はヒヤヒヤの心境にあった。
「杉井はどうなるのか」
当の杉井は当時、知人にこんな風に漏らしたという。
「一千万ぐらいは飲み食いしたかなー。だけど、現金はもらってないよ」
「でも、パクられるかなー」
接待漬け、職務権限、便宜供与が報道通りとすれば、逮捕も仕方なかった。桶井は、大蔵省きっての逸材が検察の手に落ちるのを「国家的損失」と考え、悩み抜いた。しかし、検察内部にも杉井をめぐって深い動揺があった。
(以上、「検察秘録」p245)
(中略)
四月二十七日、大蔵省は過剰接待問題で120人を処分した。前例のない処分規模だ。筆頭に杉井の名前があった。「停職4ヶ月」。その他が減給、戒告、訓告など。杉井が一番重い処分だった。マスコミから”接待王”なる冠をもらっていた当時の証券局長・長野厖士も処分を受けた。大蔵省の将来を託されていた二人はともに霞ヶ関を去った。
「検察から見たら厳しい処分とは思わないよ。検事だったら免職だよ。それにしても、泣いて馬謖を斬る思いだった。振り返ればまさに”接待の海”に手を突っ込んだ。今やらなければどうにもならなくなっていた・・・」
(以上、前掲書p247)
私たちはすでに、これらの事件については「そんな事件もあったなあ」なんて思っています。
ただそれだけです。
で、私のようなひねくれ者は「噂の真相」なんか読んでますから、「検察=悪」まではいかなくても、「検察は税金ドロボー」というイメージをつい持ったりもします。
しかし、そんな簡単なものじゃない。
それをあらわす次の文章を示します。
政治家は常に「国と捜査とどっちが大事なんだ」という命題と突きつけ、法務・検察予算や職員増員問題、法務関連法案の提出。審議などを”人質”に指揮権発動まがいの恫喝を繰り返してきた。造船疑獄事件のように、ずばり指揮権発動なら逆に分かりやすい。しかし、”まがい行為”は、双方のバトルも手打ちも水面下で交わされるため、国民の目には見えにくい。捜査途中で消え、あるいは捜査にも入らなかった事件、疑惑はいくつもあるが、その背景に何があったかは国民の知るところとはならない。
(前掲書p204)
権力から悪者扱いされた当時の特捜部に賛辞が贈られたいう文章を最後に転載します。
これはタイム誌「今年の人」に匹敵します(独断です)。
熊崎とは当時の特捜部長「熊崎勝彦」です。
利益供与事件、大蔵・日銀事件で、あれだけ政府・自民党からバッシングを受け、検察部内からの圧力も受けた特捜部だが、この国がまだ正しく機能しているとうかがわせる出来事もあった。それは、今回の事件捜査に対し、人事院総裁賞が与えられたことだ。この賞は国民全体の奉仕者として優れた業績を残し、公務員の信頼構築に寄与した個人や職域に贈られる。
そして香港の週刊誌「アジアウィーク」は「アジアで最も影響力のある50人」を挙げ、熊崎は14位にランクされた。当時の首相の橋本龍太郎は17位だった。
一連の事件を特捜部は「革命」と位置付けた。
(前掲書p254)
(2002年12月28日)
「日本経済を考えるヒント」を読んで
この著者は大岡哲さんです。
あれ?どこかで、と思われる方は、このサイトを隅から隅まで読んでおられる優良読者です。
以前、岩手日報に掲載された、この方のコラム「不良債権問題の虚実」を、私は取り上げたことがあります(削除しちゃいました)。
実は、この方からメールを頂き、その時、いよいよ著作権の苦情かな?と思いきや、違いました。
そんな心の狭いお方ではなくて助かりました。
しかも、今日の題名の本を紹介してくださりまして、非常にうれしかったです。
その感想をいよいよ書きます。
なお、このような引用の仕方は、すでに本人の了解をとってありますので、珍しく堂々と書きます(いつも堂々と書いてますが・・・)。
丸善ライブラリーです。定価は780円プラス税金
最初にびっくりしたことから。
何と当サイトと同じ趣旨の文章がたくさんあったことです。
原点となるものが、一見見過ごしがちな疑問、それから導く思考などにあることは、もうホントに当サイトと似ています(大岡さんには失礼かもしれませんが)。
そして、私だけが異端ではなかった、と安心しました。
ゆえ、重複する内容は書きません。
この本は7章からなり、ネットビジネスから、アメリカと日本の比較、住環境、学校など多岐にわたっています。
アメリカと日本の比較では、私と違うなあと思うところも結構ありますが、そこは頭を切り替えて読むと、勉強になることもたくさんありました。
まず最初に日本社会の萎縮性と言ったらよいのでしょうか、かつ、学歴社会の原因の一つと言ってもいいと思います。
それを表す文章を引用します。
やるべきは、「よくない会社」をつぶれないようにみんなで支えることではない。競争社会で生き残れない人を延命させることではない。世の中、敗者を出さないように努力することではない。社会的弱者には別途の救済が考えられるべきであり、敗者は敗者にならなければならない。もちろん、敗者にも再チャレンジのチャンスが与えれるべきことは言うまでもない。日本には、なかなか敗者復活戦の機会がないのである。一度、敗者になると永遠に敗者の烙印を押される。これでは、うかうか敗者になることもできない。わが国の社会には、生き生きとしたすがすがしい勝利と敗退のメカニズムが内蔵されていないのである。
(「日本経済を考えるヒント」p76)
この文章は前後にいろいろあるんですが、最初に「この社会と競争社会と位置付けるなら」と付け加えれば、理解しやすいと思います。
実際に競争社会ですから、付けなくてもいいんですが。
この指摘は本当ですよね。
稀には復活する人も美談として出てきますが、まず敗者復活戦はない。
失敗すれば立ち上がるのに、ものすごい努力と才能が必要。
そして世渡り上手でなければ。
この前、誰だったか、国会で、この敗者復活の制度を政府に提言していた議員がいました。
アメリカの制度を例にして。
「勝ち組み」と言われる人たちも、このあたりを考慮して、何か復活制度を提案してもらいたいですね。
だって、「勝ち組み」だって、いつ敗者になるか、わかりませんから。
アメリカ批判大好きの私ですが、アメリカにはたくさん学ぶところがあります。
それは政治思想という分野ではっきりしています(副島学問)。
私はアメリカのグローバリズムが嫌いなだけです。
第三章のアメリカン・ビューでは、アメリカの良い点を書いてあります。
念のためにアメリカと日本の比較は、第三章だけではないことを付記しておきます。
次に挙げるのは、アメリカの企業規模についての2つの文章です。
他方、米国の現行の力は、産業界への影響という意味では日本よりずっと弱い。米国の銀行の数は一万数千行もあり、行員10人あまりの小さな銀行もある。「零細多数」なのである。そして、個人マネーを吸収する金融機関としての銀行の地位は非常に低い。個人でも小切手を常用して、電気代から水道代などの日常のさまざまな支払いを行う米国では、銀行は決済口座管理機関としての色彩が強い。企業は株式や社債を発行して資金を調達する。人々は、銀行に預けないでこれに投資する。株式で資金運用する。こうした投資を扱い、資産運用業務を行う証券業の経済的役割の重要性は大きく、社会的地位も高い。
(前掲書p109)
大国アメリカが中小企業の国だというと、驚かれるかもしれないが、実際そうなのである。具体的に数字を示そう。米国には企業が2,100万もある。このうち、99.94%が中小企業。アメリカの企業はほとんですべて中小企業と考えていい。大企業はたったの1万4,000。1,600社に1社の割合だ。一方、日本はどうだろう。会社事業所は650万。しかし、このうち大企業が6万ある。アメリカの4倍あまり。全体の1%が大企業。100社に1社の割合だ。
これらの数字から、二つのことがわかる。第一は、米国の企業数が、日本に比べてずっと多いこと。経済規模に比しても、人口に比しても会社数が多いといえるだろう。第二が、米国は大企業が少なく、ほとんどすべて中小企業であること。まさに、中小企業が圧倒的。言い換えれば、アメリカ人は気軽にどんどん会社をつくって事業をやっていく。だから、会社の数が多いということになる。わが国では、会社を興して企業を立ち上げようというと、なんとなく大それたことということになり、どこかの企業の勤め人の道を選ぶのが普通だ。それもなるべくなら、大企業。個人が中心になっての会社設立などという「徒党結社」の類には、抑制的なのが日本の社会であった。
(前掲書p186)
と、アメリカは「中小企業」大国だということだそうで、最初にあげた敗者復活からの関連付けで、次のように書いています。
わが国は敗者復活戦が非常に少ない社会なのだ。これでは、うかうか店じまいということはできないし、逆にまたリスクを冒して新しいことをやってみようなどというベンチャー精神も起こりにくいだろう。
日本は米国に比べ、事業を起こす自由度も少ない、そして事業を閉じる自由度も少ない国、まさに活力の発揮しにくい社会といえるだろうか。
(前掲書p187)
日本は合併大規模化が盛んです。
私は、大規模化による体力強化とは?と問い、ああだこうだと書いて否定して、小規模乱立多様化を勧めています(「人間社会の多様性」参照)が、この大岡さんの敗者復活の文章も、見事に「中小」の良さを書いています。
私としてはもう大喜びでして。
喜んでもどうなるわけでもないですが。
第六章に「都市と地域と環境と」があり、これはまた重要ですが、長くなりますから明日にします(本当は眠いのです)。
あと、必読は「比較優位」の原則です。
これは買って読んでください。
これについてはいろいろ見方があると思いますが、大岡さんの文章は人柄が見えるというか、いやアメリカ的というのでしょうか、あるいは「人間は違って当たり前、その違いこそ社会形成に役立っている」。
あれ、違うかなあ。
何書いているんだろ?
まあ、読んでみてください。
最後にこの本の趣旨である文章を紹介します。
一番最初の「序にかえてー考えざるべからず」の抜粋です。
この本は題名こそ「経済」が付いてますが、経済とは数字ばかりを見るものではないと暗に言っています。
私は次の文章を最も強く皆さんに捧げたいです。
どうも最近の日本人は考えるということをしないようである。もちろん従来も、さほど考えるということをしたわけではないかもしれない。そもそも思考などというのは、日本人は不得手なものかもしれない。しかし、逆にいえば今こそ考えなければいけない時代がやって来た。考えなければやっていけない時代なのである。
「言われなくてもよく考えているよ」という人もいるだろう。しかし世の中のことを「○○○ってなんだろう?どうしてだろう?ほんとうかな?ちょっとおかしいんじゃない?どうしてそうなるのだろう?なぜなのだろう?どうしたらいいのだろう?世界ではどうなのだろう?歴史的にはどうだろう?これからどうなるのだろう?」と自分の頭で考えているだろうか。頭と心で理解し納得しているのだろうか。細かい数字や言葉の意味を問うているのではない。解説本を読めというわけではない。学者のように考えろといっているわけではない。こうしたものはわれわれの求める本質とは遠いことが少なくない。いつも額に皺をよせて思案にふけるべきだというのではない。机に向かえと言うのではない。難しい本を読んで考え込めと言っているのではない。電車の中、場合によってはトイレの中、歩きながらでもいい。寝床でもいい。役人も政治家も経営者もサラリーマンも学生言うに及ばず、主婦でも、おじいちゃんでもおばあちゃんでも、子供でもみんなそれなりに一人一人折りにふれ、考えることをしなければなるまい。
(中略)
日本が失ったものがあるとすれば、それは人それぞれが、自分を、日本を、そして世界をよく考えることからしか生まれまい。もし、日本を嘆くのならそこからの出発しかあるまい。安逸なる閉塞や満ちたりた冷淡の中で人々は、考えることをしないようである。従って理念に徹する精神に乏しく、ただ情勢に流されて行く。「一国文明の進不進はその国人の考へると考へざるとに由るなり」(中江兆民)と言う。日本人が考えないということは、日本に進歩はないということ。
(前掲書「まえがき」)
(2003年2月10日)
「日本経済を考えるヒント」のつづき
「ふん、こんなの、読んでもしょうがない」と思われる方も多いかもしれませんが(もともと読者は少ないんですが)、お付き合いください。
第六章の題名は「都市と地域と環境と」ですが、私は勝手に「地方主権」と変えます。
といっても、本の中の字が変わるわけではありません。
私はせっかくの大岡さんの言葉「地方主権」がすごく気に入りました。
これを今度はみんなで流行らせましょう(読者が少ないのに笑えますが)。
最初に、アメリカの地方自治についての記述を引用します。
米国では、地域計画は基本的に自治体の仕事。国はもちろん、州政府も口出ししない。だから自治体ごとに計画は様々である。この「自治体による都市計画」という考え方は、計画の仕方まで国が指導する「国主導の都市計画」という日本のシステムとは極めて対照的である。都市計画は、自治体行政において非常に大きなウエートを占める。都市計画委員会は議会と並ぶほどの拘束力を持つが、委員は数人で運営、官僚による都市計画という日本とは色合いを異にしている。郊外の小さな自治体では、行政機構自体極めて簡素である。都市計画の事務もパートタイムのプランナーが行う例も多い。
米国の行政システムは、まずワシントンDCと50州に分かれる。各州は全米約3,000のカウンティ(郡)に分かれる。そして、市町村といった地方自治体約2万弱が存在する。そしてこうした自治体には、あくまでも自治体をつくろうという住民の自由な意志に基づいて組織化されたものであるという理念が、今なお、あふれている。
たとえば、カリフォルニア州には、58のカウンティ、約450の市町村が存在する。面積にして3平方キロ足らずのものから、1,000平方キロを超えるものもあるが、一般的にはあまり大きくはない。人口も
200〜300人のところから、ロサンゼルスのように数百万人のところまである。しかし、市町村議会の議員数は普通5人、大規模なサンフランシスコやロサンゼルスでも、市会議員数は10人余り。市町村長も中小のところではほとんどが非常勤である。
米国は小さな政府と住民自治の精神が生きており、スリムな行政機関に対し、住民投票をはじめ住民の政治参加の機会が多い。
(「日本経済を考えるヒント」p212)
目からウロコで、議会の議員の少なさと、しかも自治体の長ですら非常勤というから恐れ入ります。
ということは、長の責任は軽いわけで、住民一人一人の判断というものが、ものすごい重要になってきます。
また、自治体ごとの規模が様々で、しかも、小さいところは非常勤ですから、恐らく自治体ごとに、その組織の仕事も全く違うのでしょう。
つまり、この町では税金をたくさん取る代わりにインフラ整備はしっかりやるとか、逆に、インフラは最低限にし、税金も破格の安さにするとか。
このような地方主権こそ、今の日本に必要で、自治体が大きかろうが小さかろうが関係なく、身の丈に応じた運営をすればいいのです。
この辺は当サイトと重複しますね。
いわば地方主権は、社会に多様性を生みます。
さらに住みよい環境づくりのためのゾーニングなどの規制があり、これがまた、地方主権の利点となっています。
再び引用します。
都市計画イコール土地利用規制である米国では、日本に比べて街づくりの規制は強く厳しい。自治体では@マスタープランづくり、Aゾーニング、B敷地分割規制、C公園制度などの手法により都市計画を進めているが、このほかにもさまざまな条例がある。たとえば「樹木条例」。公園や並木だけでなく、この条例は私有地内の樹木について、その伐採を禁止するのである。木を切ってはいけないのであるから、当然、屋敷の中の木々も大木になる。町全体が緑に囲まれたような、欧米の町の雰囲気は、こうした条例の結果なのである。日本人がうらやむ欧米の街の美しさ豊かさは、自然のものというより、彼らの守り育てる努力の結果なのである。
(以上、前掲書p214)
(中略)
わが国では、街づくりとか地域づくりというと、インフラや建築物の整備計画と考えられがちであるが、米国では都市計画や地域計画というのは土地利用計画がその中枢であり、規制というのが眼目である。規制緩和万能と見られがちな米国であるが、土地利用規制は一般的に日本よりはるかに厳しい。緑豊かな広い住宅地も、住民たちによる自己規制の結果以外の何ものでもないのである。
(以上、前掲書p215)
いや〜、私の家の裏山を何とかしてほしい。
ゾーニング条例をしっかり作って。
盛岡地方のある建設業者が、景色がいいからといって裏山を切り崩し、土地分譲しようとしたらしいが、なぜか撤退。
その無残な姿を彼らはどう考えるのか?
緑を失うということは、景観だけでなく、海にも良くないのに。
宮古市では今度このような開発はしないように、しっかりゾーニング条例を作ってもらいたいです。
アメリカは、住宅地以外や外国に対しては環境破壊してるけど、それは覇権国として。
ところが、アメリカの地方には「小さな政府」が生きていて、しっかり住民たちは自分たちを守っている。
日本でこんなことできるかしら。
利益誘導のエサを待っている人で占められている日本。
先の陸前高田市民のような人々がせめて4〜5割も出てくればなあ。
子供なら政治経済という教科で、このような事例を本当は教育すればそれなりに変わるんだろうけど、今、年を取っている人に教えたとして、理解できるかどうか?
教育についてもアメリカは「地域主体、住民主導」らしいです。
本当は長い引用をしたいのですが、あまりに長い。
それで一端を占めるものを引用するにとどめます。
買って読んでください。
ボランティアも盛ん。外国語としてスペイン語を教えていたが、インストラクターは、メキシコ育ちのお母さんの一人。家内も近所の人と一緒に図書館の司書の手伝いをやっていた。さらに、遠足のときの手伝いもある。ちょっとした遠出には父兄が車を出し余りバスを借りない。低学年で手のかかる時期には、読み書きの手助けに保護者の中で多少の経験と興味のある人が先生と一緒に教える。日本のことを習っていると、ゲストスピーカーとして私にお呼びがかかる。法律関係だと弁護士、からだの仕組みと病気のことだとお医者さん。何やかやと、しばしば学校に出かけているということになり、学校の実態もよくわかったし、こうしたボランティアの活用で人件費の節約にも役立っている。
わが子の学校のため、わが町のため、さらにはわれわれの住宅資産価値のためにもなると考えれば、寄付やボランティアにも前向きにならざるを得ない。もちろん、彼らにそれほどの気負いはないが、本当の地域主体、住民主導の教育システムの一端を感じるには十分なアメリカでの体験だった。国の「中央」教育審議会で、「地方」の学校教育を論じ、そのシステムを規定する日本とは正反対の姿がそこにはあった。
(前掲書p223)
このボランティア先生はものすごいアイディア。
学校の先生は教科を教えるプロでも、その道のプロでは決してありません。
宮古水産高校で、一度でもプロが授業したことがあるのでしょうか?
聞いたことがありません。
この辺の柔軟さが、今の日本の教育には必要ですね。
それに子供に教えるのって、結構楽しいんですよね。
親になるからには先生にもなれるってことで、もしこんなボランティア先生の機会があったら、チャレンジしてみて損はないと思います。
意外な才能が開花するかもしれませんし、また、その辺の開花した才能を生かせるような法整備も必要になるかもしれません。
また、差別や区別に関する記述が、随所にみられる訳ですが、最後に平等主義者のためにも次の文章を引用しておきます。
「機会の平等」には、殊の外、気を使うアメリカだが、「結果の平等」にはほとんど関心がない。同じ条件で競争し、優れたものは優れたものとして発表し、劣るものは劣るものとして明らかにする。競争条件の同一性にはこだわるが、結果は結果として明瞭に受け止める。差別はしないが、区別はするというところだろうか。
(前掲書p219)
この本はやはり、私たちの心の中に、生き方を問い掛けているように思います。
経済はつまりはマクロじゃなくミクロが大事だと、本書の中に書いてあるとおりで、私たちの生活に非常に身近なものであることがわかります。
先日のフジテレビの番組「報道2001」で放送された、竹中平蔵氏も中学生に対する特別授業という企画で、経済は身近なものだ、と説いていました。
その竹中氏の特別授業を受けた女子中学生の一人は、竹中氏にこうエールを送っていた。
「急には社会は変わらないんだろうなって感じています。根気強く頑張ってください」というような感じのことを。
今の中学生は非常に大人です。
私たちも頑張らないと。
最後にまた脱線しました。
(2003年2月11日)
「裁判の秘密」を読んで
これも山口宏弁護士と副島隆彦さんの共著で、「法律学の正体」の第2弾という位置付けの本です。
第3弾に「裁判のカラクリ」というのもあるんですが、特に「法律学の正体」と「裁判の秘密」はぜひ皆さんに読んでもらいたいくらいです。
で、この「裁判の秘密」はたぶん一般の書店では、注文でも手に入らないかもしれません。
復刻版で、発行は副島隆彦事務所です。
ほしい方は副島隆彦サイトに行って注文してください。
http://soejima.to/
さて、内容です。
最初に山口弁護士の弁護士業の悩みから始まり、これが、この本の全体の主題といってもいいかもしれません。
弁護士業の裁判に対する裏表を、一般人でも理解できるような独特の書き方で書いていて、副島隆彦さんは「あとがき」で、山口さんの文章に敬意を表しています。
裁判官のいい加減さ、依頼人の弁護士に対する頼りすぎ、離婚裁判の女性有利、行政訴訟の無意味性、オウム事件、など多岐にわたり、裁判現場から社会生活に対して、鋭い見方をしており、法律と日本人の現実生活との乖離(これは「法律学の正体」でもすでに指摘しています)に関する鋭い指摘から、日本の法律のあり方を導いています。
「第4章 債務者の怖いものはない」では、債務者が弁護士に債務逃れを依頼するシーンを題材にしています。
そのすぐ後の章が「第5章 住専の法律学」で、それもまた、債務逃れが題材です。
結論から言えば、そもそも法律は債務逃れを手助けしていると、結論付けているんです。
そのシーンの端的な例をここで引用します。
「第4章」からです。
名前は言えないが誰でも知っている立派な商業ビルの一階の洋服屋なのだが、ある人の紹介でこの人から、この間電話がかかってきて、「店をたたみたい」という。このビルにテナントとして入って商売している人だから、私はてっきりビルのオーナーとの敷金の返還交渉だと思った。私が早とちりしてああだこうだと言ったら、「いや、そうじゃないんです」と言う。「えっ、ひょっとして買掛けを踏み倒すの」と言ったら、「そういうことです」と言う。
買掛けというのは、問屋やメーカーなどの仕入れ先から仕入れ材料とかの代金の支払い債務のことである。「じつはこれには保証人がいて、この保証人のほうにも、踏み倒してもいいと言っている」とのこの洋服屋は言う。この保証人は某大企業に勤めている人なのだが、「どうぞ踏み倒してくれ」という依頼を平気でしてくるのである。こんなことがふつうになったら、世の中みんな怖くて商売なんかできなくなってしまう。
この人はふつうの洋服屋である。場所が場所だから、水商売の人たち相手とはいえ、ものを売っているふつうの商人で、大企業勤めの連帯保証人をつけられている。だから、銀行も融資しているし、メーカーも品物を入れている。それを、なんと弁護士に法律の裏ワザを使わせて踏み倒そうというのだから、唖然とする。
(以上、「裁判の秘密」p121)
(中略)
ところが、たとえば債務整理という場面で私たち弁護士のやっているのは、実際のところ、依頼者の立場に立てば、法律の欠陥を利用しつつ、世間の規範に反することをやっているということになる。
(以上、前掲書p122)
山口さんいわく、法律が、そして裁判制度が、悪質な債務者を守っていると言っている。
で、「第5章 住専の法律学」で次のように書いています。
いったい、誰が悪いのかといったら、借り手(債務者)が悪いに決まっている。いままでの世間の倫理だとそういうことだった。ところが今回はマスコミの論調がすべて、もっぱら大蔵省や政治家の悪口を言って、そこから騒ぎ始めた。借金を返せなくなった借り手のことはあまり言わなかった。問題の指摘の仕方がズレている。借り手は何百億もの資産を隠しているのに、いったい誰が、どういう制度が、それを許してきたのかということが、問題にはされなかった。
(中略)
まさに、正しく法律に守られてバブル不動産屋たちは逃げ回っているのである。法制度が「返せなくなった金は返さなくてもいい」という結論をもたらす。
(前掲書p131)
おやおや、ですね。
悪い法律はみんなで破りましょう!
ということを言ってしまってはおしまいですから、私たちが身近な政治家、あるいは政治家の後援会の面々に声をあげるとか、宮古市だったら、熊坂市長に直に提言してもいいでしょうし、うまくやっていきたいですね。
と奇麗事を書いてしまいました。
せめて自分たちで決めることのできる申し合わせの類は、自分たちの社会を照らし合わせて作っていけばいいということですね。
(2003年6月24日)
日本の技術
日本の産業界全体が低迷している、というような報道が蔓延していますが、溝口敦著「日本発!世界技術」を読むと、日本はまだまだモノづくりにおいては世界屈指だと認識できます。
それは、別にハイテクに限ったことではなく、基礎的な産業に、日本の圧倒的なシェアを誇る企業があるからです。
第6章の「基礎技術なしに産業立国なし」は全くその通り。
その中で紹介されている「ホソカワミクロン」という企業がまた素晴らしい。
何が素晴らしいかといえば、リードカンパニー制というシステムを用いていることにあります。
リードカンパニー制とは、各国の独自企業が得意とする分野について、さらに技術開発をリードし、グループ全体がその技術情報を共有するシステムだそうで、「海外企業をダメにしてしまう日本企業が多い中で、珍しい成功例だろう」と著者は語っています。
このホソカワミクロンという企業は、何を作っているかというと、粉体原料、すなわちあらゆる粉の専門メーカー。
粉というのはあらゆる物質の基礎的原料で、小麦からそば粉、セメント、クスリ、シリコンウエアーなど身の回りの生活の基礎になっています。
その粉体技術の世界的トップメーカーが、ホソカワミクロンです。
なかなか目立たない企業ですが、この基礎的な技術を日本企業が持っているものが多いらしく、その数例をこの本で扱っています。
さらに世界技術を生み出した零細な町工場もあり、何も派手な金儲け企業だけが、技術貢献しているわけではありません。
その中で一つの共通項があり、それが「巧みの技術」。
例えば、メガネで今やメジャーな非球面レンズ。
これは生田精密研磨という町工場の技術で、この分野の世界オンリーワン企業。
正従業員はたったの5人前後だというから、またまた驚きです。
レンズといえばニコンとかキャノンとか言いそうですが、この大手メーカーがあきらめた技術をモノにしたというから素晴らしい。
職人として土台がなかったらできないものだとされ、そこにこそ、大メーカーや他国に簡単に真似されない秘訣があるのだと思います。
職人となるには何より根気が必要でしょうし、仕事に対するプライドも必要でしょう。
この「巧みの技術」こそ、日本の生き残る最終的な技術と言えるかもしれません。
この本を読むと「日本企業って、頑張っているなあ」という印象を受けます。
で、何も懸念することはないと思われるかもしれませんが、先ほどの「巧みの技術」は、今の情熱の薄い軽薄な環境では育たないものです。
そう、熱中する、ということが大事。
みなさん、何でも熱中しましょう!
この本は読むと元気が出ます。
(2003年10月14日)
「ヤクザ・リセッション」を読んで
ベンジャミン・フルフォード著「ヤクザ・リセッション」は、すらすら読める本です。
はっきり言えば、毎度読んでいる副島本と「噂の真相」を足して2で割ったようなものです。
この本には構成上一つ欠陥があって、それは第7章。
ただの日本社会の愚痴を書いていて、「それじゃどうすればいい?」と問われればベンジャミン自身、答えに窮すると思うからです。
例えば、次の文章を参照してください。
日本の高い技術力の源泉は、金型にあるとされる。大田区のこの一帯は、その金型を扱う中小企業の中心地であり、これまではどんな不況にも強かった。それは、不況時でも大企業が設備投資や新製品開発を積極的に行い、金型を作る優良企業を支えてきたからである。が、いまや大企業はほとんどが海外に出ていってしまい、いわゆる産業の空洞化がこの街の活気を奪ってしまった。
(「ヤクザ・リセッション」p225)
海外に出る企業というのは、安い労働市場を目的として出て行くのがほとんどでしょう。
そうやって中小企業経営者に同情しつつ、彼は同じ章のその後に「サラリーマンのボーナスが崩壊」「サラリーマン、ポイ捨て法の成立」と今度は企業側を攻撃するような文章を書いてます。
さらに雇用状態が良くないのに、今度は「日本は移民を受け入れるべきである」と書いているから、なんとお粗末。
移民を受け入れる理由は、その人口増で年金を補うというもの。
あきれてしまいます。
こんな論理のない文章なら(誰でも書けるよ!)、読む価値がないと思います(ホントこの7章は削除してもらいたい)。
まあ、一応内容を少し紹介します。
本来、金融業とはまともな借り手にお金を貸すものである。はなから非合法活動をしているヤクザに、お金を貸すのは、銀行自身もまともな資本主義をしていなかったことになる。ヤクザはアウトローであるから、お金が返ってくると考える方が間違いだ。ドロボーにお金を貸してはいけないことなど、子供だってわかるはずだ。日本では、借り手ばかり責任が問われるが、貸してはいけない相手に貸したほうが、もっと悪いに決まっている。
住友銀行会長の磯田一郎がこのことを思い知ったのは、バブルが弾けて、債権の回収を始めた矢先に起こったあまりにも日本的なある事件だった。もうほとんどの日本人が忘れてしまったかもしれないが、住友銀行東京本店に、ある日突然、糞尿がまかれたのである。
これが、闇世界からのメッセージでなくてなんであろう。
このときから、銀行はヤクザからの債権回収をあきらめ、一般の人間や中小企業からだけ回収するようになった。そして、ヤクザの背後にいる官僚や政治家に泣きつき、国民の税金、いわゆる公的資金を当てにしだしたのである。こうした闇の構造体が、最初に国民の金を巻き上げたのが、1995年の住専処理だった。
(前掲書p75)
このようなことが書かれた本で、先に取り上げた第7章を削除すればそれなりに読んでもいい本なんですが。
さて、当方の掲示板で、姫様(エサにしてすみません)が「せめて小泉ちゃんを呼び捨てにしないでいられたらと願う娘でございます」との投稿をなされましたが、その「小泉ちゃん」を「小泉」と呼び捨ててもいいようなことが国会答弁でなされていた事実をこの本は書いていました。
引用します。
2003年2月20日、衆議院予算委員会で長妻(長妻昭、民主党:hajime注))が提起した疑惑は、小泉の私設秘書を努める実弟・小泉正也の個人会社(公設秘書の鍋倉正樹が取締役、首相秘書官の飯島勲が監査役の「コンステレーション」2001年7月解散)が、地元横須賀市の発注した「舟倉ポンプ場沈砂池機械設備工事」の受注企業に情報提供を行って、「成功報酬=リベート」を得ていたというものだった。小泉はこれに、「そういう(リベート)契約はない。一方的議論はやめていただきたい」と、気色ばんだ。
しかし、長妻は受注企業の日立金属の担当者から聞き取りしたデータを持っていた。それによると、日立金属側は、その契約が「一般的には手に入らないような情報に対して支払うものだった」と認めており、覚え書きも存在していたのである。
つまり、小泉は国会で偽証したことになるのだ。
長妻はさらに、小泉が支部長を務める自民党神奈川県第11選挙区支部が、2000年の衆議院解散の2日前に、国発注工事の受注企業である横浜市の工務店から50万円の献金を受けて、選挙公示日に選挙事務所の家賃を支出していることも取り上げた。
これは、公職選挙法に違反する行為だった。公職選挙法では、国との請負契約者が国政選挙に関して寄付(「特定寄付」)することを禁じているからである。しかし、小泉は「政党支部が選挙事務所の家賃を払ってなにがおかしい。なんらやましいことはない」と答えたのである。
3月3日、衆議院予算委員会で、再び長妻は質問にたった。
長妻 前回の審議で、首相は「契約はない」と明確に言っておりますが、訂正する気はないのか?
小泉 疑惑を持たれるような契約はない、と言っただけで、その必要はない。
長妻 いや、前回の質問に(疑惑というような)形容詞などなく、首相はただ「そういう契約はない」と、答弁した。実は契約はあるということなのか?
首相 特定の工事発注についての契約などない。
―こんなやりとりの後、なぜか小泉は、「特定の契約はないが、領収書はある」と言い出したので、議場は騒然としはじめた。
長妻 領収書があるということは、報酬の支払いがあったということだ。具体的にどういう性質の支払いなのか?額はいくらなのか?時期はいつなのか?この3点を明らかにしてほしい。
小泉 それは、普通の仕事上の話し合いで、特定の工事の話し合いではない。収入等の領収書はある。しかし、特定の工事の契約ではない。
長妻 領収書はあるが、それに基づく契約がないなど、あり得ないのではないか・・・?
―このあたりから、首相の話は、なぜか焦点が定まらなくなっていった。なにを言っているのか、議場もわからない。
小泉 弟は秘書であるが、一般の社会人であり、社会人同士のつき合いが・・・。
藤井孝男(予算委員会議長) 総理、領収書の中身というのは非常に単純な問題です。そこのところだけ・・・(はっきりと)。
小泉 再三答弁しておりますが、領収書のようなものはありません。
―ここにいたって、議場から失笑がもれた。先ほど、「領収書はある」と言ったその口で、今度は「ありません」と言う。小泉は、自分の言葉のもつ意味など、まったく理解していないのだろうか?
この質疑はテレビ中継もなければ、新聞もほとんどふれなかった。そして、すべては忘れられてしまったのである。
(前掲書p116)
すみません、姫様。
このように「ちゃん」は取って「小泉」と呼び捨てていいようです。
いろいろな方が指摘しているように、日本には敗者復活戦ができる環境が非常に少ないようで、ヤクザを生む温床は、私はここにあると思います。
一度失敗した人間はどうやって立ち直るか、非常に難しい。
最低限のご飯を食うのすら難しい人もたくさんいる。
ところが、成功した人間は一人で、何人分もの贅沢ができる。
個人差もあるでしょうが、キレて犯罪行為に走る人が出てくるのを、想像することは難しくありません。
不景気になれば犯罪が増える、ということは経験的真実で、今の日本では、学校の時点でつまづけば、まず六本木ヒルズ(笑)に住むことは不可能なのです。
猪野健治著「やくざと日本人」では、権力が利用したやくざ、そして、差別社会に起因するやくざの社会主義的性質などの指摘はものすごく的を得ており、そこからマスコミを使って、その差別を逆利用するという手口に発展したりします。
大きな流れでみれば、あんな偽証国会答弁をするような一国のリーダーらが、差別され暴力的になった人間たちを利用して社会を動かす。
しかし、その構造をしっかり見てきた頭のいいやくざは、逆にこの国の中枢を脅し、そのツケをまともな一般国民にかつけた(強引に押し付ける。宮古弁だと思う)、と言えるのです。
どうしても能力に差が出てしまうの仕方がないことですが、これを素直に認めて、能力の劣る人の職場の確保、例えば、単純労働市場(表現上好ましくないかもしれませんが、他に思いつかないので)の確保に力を注ぐべきだと思うんですが。
しかし、それが日本の賃金制度(高賃金、企業内の経営側と労働側の利益分配の取り決め方、そしてその不透明さに原因があると思う)に欠陥があるから、単純労働市場は海外へと持っていかれた。
この辺をよく「先生」と呼ばれる方々はよく考えて、せめて「ちゃん」付けで呼ばれるようになってほしいと思います。
ちなみに、今年度版の「地球環境データブック」では、世界的に経営側の報酬と従業員との給与の差が非常に拡大していると、指摘しています。
アメリカの最高経営責任者(CEO)と従業員の給与の差は、1990年代で5倍以上であったらしく、それが2001年には、平均的な製造業生産労働者の350倍の収入をCEOは得ていたようです(ストックオプションのなせる業で、その弊害がこの結果となっている。しかしその弊害はそれだけにとどまらず、粉飾決算の元凶にもなっている)。
これは世界的な現象です。
地球環境的にもこの賃金格差は深刻であり、「悪」と位置づけてもいいかもしれません。
それを示す文章を引用します。
その結果、2種類の環境破壊が起きている。すなわち、裕福な人々は物質中心の汚染を発生するライフスタイルを好んで、地球という惑星に大きなダメージを与えている。一方、貧しい人々はそれぞれの地域にあって最悪ともいえる環境に耐えながら、耕地、森林、水資源を限界近くまで利用しつくして、かろうじて生活をしている。
(「地球環境データブック2003−2004」p11)
これは世界的対比で書かれた文章ですが、しかし、どの社会にもあてはまることです。
なんだか、「ヤクザ・リセッション」の感想文がこんな形になって非常に不自然ですが、まあ、いろいろ関連付けて考察するということもいいのではないでしょうか(ということにしておきます)。
(2003年12月27日)
補足説明
文中の「姫様」とは、「そりゃいけ!栄進丸」の制作管理担当者のことで、その文意は、掲示板がまだあった頃「日本の総理大臣である人を呼び捨てず、せめて小泉ちゃんと呼びたい」という主旨の書き込みに対応したものです。
(2004年7月2日)
真珠湾に関する3件の読書
歴史は、真実が明らかにされていくにしたがって、どんどん変わってしまいます。
さらに歴史評価については、180度変わります。
単純な自然科学の進歩、スポーツの歴史などには、権力による恣意的な介入はそれほど影響はなく、それらの史実は、時代が進んでもそれほど変化はありませんが、社会科学的なものの歴史、特に政治分野の歴史は、各国の戦略による情報の非公開という手段などでねじ曲げられています。
それゆえ、現時点で判明している部分でしか、歴史を語ることができず、せっかく労して出版した本が、まったくの愚作になってしまうこともままあるようです。
今回、日本の真珠湾攻撃に関する2つの本と1つの記事を読んで、それを感じました。
最初に、新井喜美夫著「日米開戦の真実」を読み、その後にロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」を読みました。
さらに「文藝春秋」2003年12月号の記事です。
「日米開戦の真実」と「真珠湾の真実」は、日本では同時期に出版されて、前者は2001年7月11日、後者は2001年6月30日で、恐らく米国での「真珠湾の真実」出版は、かなり早いと思われます。
「真珠湾の真実」を読み終えて感じたことは、最初に読んだ「日米開戦の真実」という本があまりに古い、という印象を拭えない、ということです。
しかし、日本側の歴史評価は一致するところもあり、また背景事情、そして冒頭の「はじめに」で小栗豊後守忠順の行動を記述したあたりは、「真珠湾の真実」の最後にある中西輝政京都大学教授の解説と同じように、今の日本に対する願望を語っているように思われます。
「日米開戦の真実」では、日本側の舵の取り方で日米戦争は回避できた、あるいは米側もそう望んだフシがある、としていますが、これは違っています。
また、「ハル・ノート」の解釈の仕方でも、日米開戦は回避できた、とも書いていますが、それも全く違います。
さらに、日本の無線封鎖は事実と違いますし、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知らなかった、というのも事実と違います。
しかし、対米覚書、いわゆる「宣戦布告」の解釈をめぐっては、「文藝春秋」の記事に通じるところがあり、これについては後述します。
今日は「真珠湾の真実」を主に紹介します。
最初にアーサー・マッカラムの「海軍情報部長あて覚書」をご覧ください。
これを著者は「マッカラムの戦争挑発行動八項目覚書」と呼んでいて、事実、これは挑発そのものであり、しかもアメリカはこれを実行しています。
この文書には時のルーズベルトの指紋も残っています。
挑発行動の具体例は次の記述です。
1941年3月から7月にかけて、ホワイトハウスの記録によると、ルーズベルトは国際法を無視して、ある任務部隊を、そのようなポップアップ(挑発)巡洋艦3隻として日本海域に派遣していた。最も挑発的な行動の一つは、瀬戸内海への主要接近水路である豊後水道への出撃であった。豊後水道は九州と四国との間に横たわり、1941年には日本帝国海軍お気に入りの行動海域であった。
日本海軍省は東京駐在のジョセフ・グルー米国大使に、次のように抗議した。「7月31日の夜(豊後水道)宿毛湾に錨泊中の日本艦艇は、東方から豊後水道に接近するプロベラ音を捕らえた。日本海軍の当直駆逐艦が探知して、船体を黒く塗装した2隻の巡洋艦を発見した。2隻の巡洋艦は日本海軍の当直駆逐艦が向かっていくと、煙幕に隠れて南方寄りの方向に見えなくなった」
そして、この抗議文書は「日本海軍将校は、それらの船がアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」との文言で締めくくられていた。
D項目の挑発行為はきわめて危険で、真珠湾で受けたに近いアメリカの水兵の死傷者をもたらす可能性もあった。しかし、ポップアップ巡洋艦の巡航中、結局のところ、発砲事件は1件も生起しなかった。一項目の挑発行為が取り上げられただけではなく、日本を挑発するためにマッカラムの提案のすべてが実施された。
(「真珠湾の真実」p28)
このアメリカ巡洋艦の行動は、記録には3回あり、挑発行動の一例にすぎず、挑発行動にはイギリスも参加しています。
その後いろいろあって、山本五十六海軍大将は真珠湾攻撃を立案します。
しかし、その情報はすぐに漏れていました。
引用します。
山本が信頼している海軍将校たちに真珠湾攻撃計画を打ち明けて間もなく、東京の米国大使館に真珠湾攻撃が漏れた。大使館の三等書記官マックス・W・ビショップがある日、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの東京支店で、日本円をドルに両替しようと窓口に並んでいた。肩を叩かれ振り向くと、ペルーの日本駐在公使リカルド・リベラ・シュライバー博士が立っていた。ビショップを壁の入りくんだところに行くよう促したのでついていくと、シュライバーが「奇抜な」情報を教えてくれた。
「アメリカと対立した場合、日本は軍事的資産をすべて投入して、真珠湾を攻撃することを計画している」
ビショップはシュライバーを信用していた。彼はシュライバーに以前何度か会っており、ペルー公使館の他の館員を交えてゴルフをしたこともあった。ビショップはこの会話が完全に内緒話として語られたとして、次のように述べている。
「銀行の片隅で話をすることは決して珍しいことではないし、外交官は誰でも情報を集めるのが仕事である」
ビショップは昼休みを早めに切り上げ、米大使館へ急いで戻って、本国の国務省あて秘密情報を用意した。ジョゼフ・グルー大使がこれを承認した。午後6時までにこの電報は解読不可能といわれる国務省暗号システムで暗号化され、通りを挟んだところにある電信局から無線電信でワシントンへ送られた。
翌1月27日の朝、国務長官コーデル・ハルがこれに目を通した。
「ペルー人の本職の同僚の一人が本職のスタッフの一人に、アメリカと対立した場合、日本は軍事的資産をすべて投入して真珠湾を奇襲するとの情報を、一人の日本人の情報源を含む複数の情報源から入手したと語った。彼はこの計画を奇抜だと感じたが、実は複数の情報筋から伝わってきたので、急いでこの情報を伝達することにした、と付け加えた。グルー」
ハルはグルーからの電報の写しを陸軍情報部と海軍情報部(ONI)に配布した。アーサー・マッカラムはONIとして見解を述べるよう求められたが、たちまち窮地に陥った。彼の戦争挑発行動八項目覚書に述べてあるとおり、ハワイ攻撃は望むところだった。日本で育った若者として、彼は日本人が奇襲を好む傾向があることを知っていた。マッカラムが5歳半だった1904年2月、日本の水雷艇隊が旅順港外のロシア艦隊を奇襲した。日本の待伏せ奇襲攻撃により、ロシア艦隊が損傷を受けたことを知って、世界中がびっくりした。
マッカラムはこの歴史的事件を覚えていた。彼の意見では、グルーの電報は挑発戦略の有効性を証明していた。しかし、マッカラムは米艦隊のハワイ駐留が日本を戦争に引き込みつつあることを太平洋艦隊に警告する代わり、グルーから送られてきた情報を「噂」として、割り引いて聞いた。1941年2月1日、マッカラムは太平洋艦隊司令長官に就任したばかりのハズバンド・E・キンメル大将に自分の見解を述べた。
「海軍情報部のこの情報を全く信用していない。そのうえ、日本陸海軍の現在の配備と使用とに関する既知のデータから、真珠湾への(日本軍の)移動が差し迫ってもいなければ、予見しうる将来、計画されてもいない」
(「真珠湾の真実」p68)
このように、マッカラムは心の中では喜んではいても、真実をハワイのキンメルに対し、攻撃されるまで教えることは決してなかったのです。
ハワイのキンメル大将とショート中将には一貫して、日本の真珠湾攻撃の事前情報を全く伝えなかった。
それゆえ、彼らは何ら防衛行動・迎撃行動に出なかった。
このあたりは、鈴木明さんもラジオライフのコラム「波」に書いています。
攻撃前のアメリカは、表面上日本への石油禁輸を行っていますが、実は密輸は大目にみていたようで、それも日本の戦争準備を促すためであることも、資料が出尽くしています。
複数局の無線傍受、それに伴う無線方位からの位置情報、暗号解読すべてにおいて、アメリカは日本の真珠湾攻撃を事前に知っていて、とにかく日本に奇襲攻撃してほしかった。
そして、在ハワイ米軍、住民の犠牲を覚悟で攻撃された。
しかも、「宣戦布告遅れ」というオマケまでついてきた。
これにて、「リメンバー・パールハーバー」の名文句で、日本は卑怯者とされ、アメリカは開戦に喜んで踏み切ります。
どうしてアメリカは日本に攻撃してほしかったか?
当時ドイツの脅威が大きく、日本よりもドイツのほうが気がかりだった。
ところが、アメリカ国民は戦争はしたくなかった。
その国民の支持を取り付けるために、日本に奇襲攻撃をしてほしかった。
自国を攻撃されれば、世論は一気に開戦へと傾きます。
「真珠湾の真実」の解説で、中西輝政京都大学教授が指摘している通り、日本がドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ時点で、日本の命運は決まっていたようです。
なお、ぜひこの中西教授の解説は読んでほしいです。
日本の指導者たるものへのお叱りと見てとれます。
ルーズベルトの、国民からの支持の獲得法は、まさにその国の最高の指導者たるものを示しており、それに比べて日本の小泉首相のイラク自衛隊派遣において、国民に対する支持獲得策は、全くもって皆無です。
次に「文藝春秋」2003年12月号の、斉藤充功(みつのり)さんの「真珠湾の『騙まし討ち』の新事実」と題する記事ですが、何と「最後通牒の通告遅れ」という外務省史上最大の不手際が、新庄健吉陸軍主計大佐の葬儀に、野村・来栖両大使が出席していたからではないか?という内容のものです。
「宣戦布告」という重要な役目ならば、部下のものを葬儀に行かせればよかったのに、思うのが普通です。
ここからは私の考察です。
実は両大使は、日本から送られた最後の対米覚書を「宣戦布告」とは思わなかったのではないかと、私は感じています。
その記述を最初にあげた「日米開戦の真実」に見出すことができます。
この著者は、最後の対米覚書に、「最後通牒」を表す文章が欠けていたと指摘して、実はその欠落部分は原文ではあったらしい。
その記述を引用します。
事実、当時、外務省にあって本文案の起草に当たっていた山本熊一アメリカ局長は、東京裁判での法廷において、次のように証言している。
「対米覚書の第十四部の末尾には、確か、・・・よって、将来において、発生すべき一切の事態に関しては、合衆国政府において、その責に任ずべきものなる旨を、茲に合衆国政府に対し、厳粛に通告するものなり―といった内容の文言をもって、締めくくったはずであった」
もしも、この山本局長の証言のとおりであったならば、これこそハーグ条約にかかげられているごとく、きわめて明瞭な「宣戦通告」となっている。
(「日米開戦の真実」p124)
曖昧な覚書を読んだ両大使は、「葬儀はすぐ終わるであろうから」、という楽観的な考えから、「覚書を持参して葬儀に出席し、その後に国務省に持っていく」、という段取りだったのでしょう。
この覚書の重要さを、それほど認識していなかったのかもしれません。
しかし、さまざまな資料がアメリカの情報公開に伴ってどんどん出てくるでしょうから、歴史はいずれ明らかになり、またそれによって歴史評価も変わるでしょう。
私が書いた考察は、テキトーに頭から捨ててください。
(2003年12月21日)
加筆
「真珠湾」のアメリカの対日戦略は、対ドイツ開戦に向けて日本を利用するために、マッカラムによって考案されたものです。
つまり「アメリカ国民の世論をどう導かせるか」という方法論ために。
私は小泉首相とルーズベルト大統領を比較して、ルーズベルトを一応持ち上げましたが、それが正当なものかどうか、というのは別問題です。
真珠湾のように、あるいは、中西教授が紹介している、チャーチルがコヴェントリー市民を犠牲にしたように、自分の国の軍隊、国民を犠牲にしてまで、戦争を有利に展開しようとする行為は、果てして許されるべき行為なのか?
もしこれが許されるのならば、利用された犠牲になった人々は、とても民主政国家の国民とは言えないでしょう。
アメリカ政府は「真珠湾」に関する重要な史料、文書、無線日誌の類を公開せず、すべて隠しています。
どうして隠しているのか?
それはやはり、「戦争をやらせる」「攻撃を知っていて犠牲をいとわない」という行為を許されるべきものではない、と考えているからです。
中西教授は解説の最後のほうで、「戦争責任」に少し触れていますが、これらの真珠湾の事実が「戦争責任」の所在を大きく変えることになり、すなわちここにも、アメリカが真珠湾の真実を隠す理由があり、また、彼らは「戦争責任」を自覚していることにもなるでしょう。
9.11テロの関しても、アメリカ政府は、事前にテロが起きるのを知っていて、やらせたのではないか?と疑う人もいます(私もその一人ですが)が、もしそれが真実であるならば、これは「真珠湾」と同じ構造です。
この9.11テロの報復としてアフガニスタンが攻撃され、その延長上にイラク攻撃があり、現在に至っています。
先日、リビアのカダフィ大佐がアメリカに「降伏」し、北朝鮮にも「降伏」するように促すインタビューがありました。
これらを単純に見る人は、「これでアメリカのイラク攻撃は正解だった」と言うでしょうが、これは結果論でしかありません。
カダフィの「降伏」を予測することは誰もできなかった(予測した人、いるのかなあ?いないと思うけど、いたりして)。
これほどのイラク戦争の長期化を、戦争当事者のアメリカ自身も予測できなかったのと同じように。
イラクの先行きはものすごく不透明で、先に解決するはずのアフガニスタンですら、ますます不安定になりそうですから、これらの「結果」はどう解釈されるのか?
歴史上の評価は「結果」で下されますが、その「結果」は誰も予測できません。
したがって、一部の「結果」が良かったからといって、決して戦争が正当化されることはないのです。
中西教授は、情報戦で日本が負けたから日米戦争で簡単に敗戦したのだ、と結論を出しており、情報獲得の重要性を強調して、戦略立案の際、最も必要なものがその情報である、と指摘しています。
90年代の金融危機などは日米戦争後の「第二の敗戦」と揶揄され、そこにも、「真珠湾」と同じ構造のアメリカの戦略にはまった、ということを見出すことができ、誤解されるまでもなく、決して戦争戦略のことを指しているのではないのでしょう。
すなわち、「日本はすでに情報戦の時点で負けている。よって日本政府はもっとしっかり情報収集せよ。そして本当の国益のために戦略をたてよ!」ということです。
(2003年12月25日)
加筆U
私は以上のように、中西輝政さんのことを書いてますが、彼をネット検索すると「新しい歴史教科書を作る会」の理事であることが出てきます。
私はその「新しい歴史教科書を作る会」で出した教科書や彼の出版物を読んでいませんから、それが良いか悪いかはわかりません。
一般には敬遠されています。
その会の行動の良し悪しに関わらず、良いを思われる文章は、評価されるべきだと思いますし、また、悪い面は切り捨てて良い面だけを吸収していく、という立場で、いろいろなことを考えていくことこそ、この情報氾濫時代のもとで、情報獲得者にとって必要なことと思っています。
その選別の判断は、情報獲得者の責任であることは言うまでもなく、その判断によって行われた行動もまた、誰の責任にすることもできません。
すなわち、私がこのように書いて失敗してもすべて私の責任で、また他の人がこのサイトを見て行動を起こしたとしても、それは私の責任ではなくその人の責任だと思います。
情報社会において、自己責任とはそういうものなのでしょう。
「お前がこう書いたから、お前のせいだ」というような責任の押し付け合いが氾濫すれば、ネット上の言論すべてが問題視され、やがてボランティア(アマチュア)のサイトはすべて消滅する破目になります。
(2004年1月16日)
田中角栄について
1976年に、田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕されました。
今から28年前、というと、私がまだ中学生だった頃でして、国会での証人喚問の記憶が少し残っています。
「記憶にございません」
この言葉が当時、悪事を隠す代名詞みたいなものになり、友達同士でも「記憶にございません」とやったものです。
しかし、何と無知だったのか、という自覚が、いまさらながら芽生えてきます。
田中角栄といえば、当時私が受けていた印象は、金で人を操る悪の政治家、「ヨッシャ、ヨッシャ」など、良いものではありませんでした。
若い世代に人たちは、ロッキード事件についてわからないと思いますので、一般的なロッキード事件について書いたサイトを紹介しておきます。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokkido.htm
この「漁師のつぶやき」サイトを開いたころだったか、ロッキード事件のアメリカ謀略説を聞き、一般の角栄論を疑うようになってはいました。
それが、今は、ロッキード事件そのものを否定し、田中角栄は無実である、という認識に変わっています。
ロッキード事件の裁判の争点は、ロッキード社からの賄賂5億円を、丸紅を通じて受け取ったか否かにかかっていましたが、実はその5億円とは、丸紅からの単なる政治献金で、ロッキード社のトライスラーL1011の全日空機種選定とは、何ら関係なかったらしい。
5億円が政治献金となれば、ロッキード事件そのものの存在がなかったことになるので、当時の稲葉法相(三木内閣)はこれを「使途不明金」として、ロッキード事件から切り離し、別の「ピーナッツ」の領収書、金銭受け渡し場所の捏造へと事件を進めていった。
「進めていった」と書きましたが、これはマスコミを使った国家ぐるみの田中角栄潰しで、本当に進めていったのです。
例えば、ロッキード社のコーチャン氏の証言に関する「不起訴宣明」を最高裁が認めたことが、その一端を示しており、次の引用で意味がわかると思います。
日米間の司法取決めによれば、証人が偽証をおこなった場合、日本の依頼によってアメリカは調査をおこなわなければならない。ところが「不起訴宣明」があれば、日本側は偽証を咎めることも、アメリカ側に偽証かどうかをたしかめることもできない。コーチャンが最高裁の「不起訴宣明」をもとめたのは“偽証”を咎められた場合の逃げ道だったのである。
日本の司法は「偽証をおこなってもよろしい」という“お墨付き”ばかりか、偽証の免罪符まであたえ、コーチャンに証言をさせ、それをもとにロッキード裁判をおこしたのである。
(新野哲也著「角栄なら日本をどう変えるか」p91)
これらの謀略に最も加担し、今責任の問われなければならない言論人は、田中批判の急先鋒であった立花隆氏であり、よく言われる「知の巨人」の正体は、実は、嘘の上塗りだった、ということも書かれています。
それにしても、田中角栄が政界や官僚、司法から、それほどまでにどうして嫌われたのか?
それは田中角栄に学歴がなかったからで、しかも、小泉内閣の叫んでいる「改革」が恥ずかしくなるような、大改革をしようとし、それで危機感を強めた官僚側とその族議員連合が手を組み、また、それがアメリカの利害と一致し、なんでもありの裁判を進め、有罪をでっちあげました。
話はアメリカ謀略に飛びますが、これに関しても簡単な話ではなく、ロッキード社のトライスラーの話よりももっと大きな事件へと発展しかねないことになり、それが解明されれば、アメリカの軍産複合体まで解体されてしまう状況になってしまうので、その矛先を日本の田中角栄へのいわば責任のなすりつけみたいな結末ヘと導き、一方、アメリカ国内では、マスコミを徹底的に抑えました。
それゆえ、このロッキード事件は、田中角栄がいけにえにされた、と言っても過言ではないと思います。
以上のことは、先ほど引用を示した新野哲也著「角栄なら日本をどう変えるか」に詳細に書いてあります。
プロローグの部分は少し辟易する部分もありますが、最近読んだ本の中では、第一級のおもしろさだと私は思います。
題名と内容は一致せず、題名のことは一つも書いていません。
そのことは著者も「あとがき」でお詫びしているように、この本はロッキード事件の全容を、アメリカから日本国内の事情まで解明したものです。
少なくともこれを読めば、現在生存している政治家の評価が変わることは確実です。
当の田中角栄自身についても、かなり変わります。
吉田茂が認めた「百人に一人」の逸材だったようで、日本の政治史上で、最も多くの議員立法を成立させ、本当に優れた政治家だったと言われています。
そして、意外にもクリーンな政治家とも書かれていました。
それを示す文章をここで引用します。
角栄に同情的な田原総一朗にして角栄を“金権政治の嚆矢(こうし)”であるかのようにいうが、自民党の金権政治はとっくの昔から腐臭を放っていた。むしろ角栄は、国のカネにはビタ一文、手をつけなかった稀有の政治家だった。角栄は自前の事業経営をとおして政治資金をつくった。そのなかに結果として“土地転がし”の疑いがあったとしてもそれがいかほどのことか。
(前掲書p200)
へえ〜。
まあ、これが他の政治家に嫌われた理由の一つかもしれません。
学歴だけあっても自らは何もできず、他人のカネ、すなわち税金をかすめようとする政治家や官僚からみれば、それは「いやなヤツ」だったのでしょうが、そう思うほうが国を治めるものとして失格です。
田中角栄は、どのような人と付き合うべきかについても、細心の注意を払う人だったようです。
児玉誉士夫とは面識もなく、友の小佐野賢治に勧められても、付き合わなかったそうです。
児玉誉士夫は、一時アメリカの手先でした。
ここで、私が前に疑ったことが、本の最後に書かれていたので紹介します。
日本の有力政治家の大半は、アメリカに弱みを握られている。スパイ罪のない日本では、外国諜報機関が自由に政治家や官僚のスキャンダルを漁り、それを外交工作にもちいるのである。反米がタブー視されている保守政界では、いまもなお真顔で「角さんのようにはなりにくい」というブラック・ジョークが語られている。
(前掲書p201)
これは、私が「リバータリアニズム入門」の続きの中で、「それほど国会議員はアメリカを怖いようで、何か与党側やその他の国会議員はアメリカに弱みを握られているのかもしれません。」と疑ったこと自体、実は政界では常識であったことを示しています。
(2004年4月10日)
ハリウッドも日本を属国に見たてている?
副島隆彦さんによると、社会科学(社会学問)の分野で、日本の知識人はかなり低レベルで何も知らない、と断じており、そのことは、彼の著書の全編にわたって書かれています。
読んだことのある人はわかると思いますし、そういうふうにバカ扱いされることが嫌いな人たち、特に文系の人たちは、彼の著書から離れていく人も少なくないと思います。
しかし、こうもあからさまに日本が属国扱いされると、少しは副島さんの言うことも見直したらどうかと、私なりに書いておきます。
題名からもわかるとおり、映画を通じても、日本はその程度の国にしか見ていられないようですし、彼の指摘によって、今まで観てきた映画に対する私なりの評価も、かなり変わりました。
今日は副島隆彦著「ハリウッドで政治思想を読む」から、ハリウッドの、日本に対する見方を紹介します。
最初に「スター・ウォーズ エピソード1」からで、「スター・ウォーズ」シリーズは善の連邦軍と悪の帝国軍の構図で、最後に勝つのは善の連邦軍なわけです。
そこで次を引用します。
銀河共和国(Galactic Republic、ギャラクティック・リパブリック)という、銀河系宇宙の諸惑星が加盟する各々の生命体(生物種)からなる自治組織の連合体が出てくる。これに対抗して、今回、宇宙の平和に破壊攻撃を仕掛けてくるのは、何とおそれ入ったことに「通商連合」(Trede Confederation)である。いやこれには参った。通商戦争(貿易摩擦)からの類推だ。
この通商連合が、宇宙の平和を乱す悪の軍事同盟として現れた。銀河共和国とは言うものの、本当は、こっちの方が現在のアメリカ帝国(American Empire)及びその属国(同盟国、Alies)群である。他方、この「通商連合」というのは、現在のアメリカに、自分勝手な工業製品のダンピング輸出攻勢を行っているヨーロッパ諸国とりわけドイツと、日本のことである。それで、「通商連合」なのだ。ありゃありゃ。ここまで露骨な話だったとは。
(副島隆彦著「ハリウッドで政治思想を読む」p118)
私、この映画、観てないんですよ。
どうせ英語わかりませんから、字幕で「聞く」わけですが、字幕ではどう書かれているのでしょう?
字幕まで「通商連合」なんですかねえ?
さすがに英語ができる人はごまかせんから、この辺の指摘はさすがです。
ジョージ・ルーカスがこんな形でアメリカ以外の国を表現したのには、やはり彼の心の底はやはり「日本憎し」なのかもしれませんね。
あきれてしまいます。
さて、この「ハリウッドで政治思想を読む」は「アメリカの秘密」の続編で、「アメリカの秘密」では日本がモデルになっているハリウッド映画を複数紹介しています。
そのモデルも未開の原住民のモデルとして、です。
すなわち、未開の原住民=日本人なわけで、それほどアメリカ人からみれば、日本人は東アジアの奥地の原住民らしいです。
映画のストーリーは、片方は、その東アジアの奥地に来てびっくりした、というのと、もう一つの方は一人のアメリカ人が未開の奥地の王様になり、アメリカはそれを許さなかった、というストーリーです。
どちらも超有名な映画です。
東アジアの奥地の原住民は、どうせどのようにでも支配できる、という見方なのでしょう。
今までそんなことも知らず、これらの映画を喜んで観てたんですから、制作したアメリカ側は「日本人ってバカだ。やはり奥地の原住民だ」と心の底では思っているのでしょうか?
いやなやつらだ!
(2004年4月11日)
「正しい戦争」は本当にあるのか
この題名の本は、藤原帰一さんという東京大学大学院法学政治学研究科教授が書いたものです。
こんな本なぜ?と思うでしょうが、これは休刊した「噂の真相」の「メディア異人列伝」で紹介されていたものを、買い置きしておいたものです。
彼のインタビューで、次の言葉に感心させられ、信用して買ってしまいました。
個人情報について、私は規制が必要だと思う。マスメディアでの個人の人格攻撃は目を覆うばかりです。言論の自由が無制限だと思わないし、無制限だと考えたときに言論は信用を失う
(「噂の真相」2004年2月号p87)
言えてますね。
あの文春の田中真紀子代議士関連の記事、あれを見るとねえ・・・。
さて、今日は3部構成でいきたいと思います。
本自体は、6章から成っていますが、特に目を引いたところを紹介します。
核兵器は高い
「核兵器は安上がり」というのはウソらしいです。
というのは、戦略的に意味があるように使うには、運搬することを考えなければならず、衛星監視から逃れるために一番安定した核の搭載場所は、海なんだそうです。
核兵器の基地というのは、ミサイルでやられれば終わりですし、地下に入れればそこを核兵器で攻撃されてハイ終わり。
これは、現在の核戦略ではあまり意味をなさなくなっているらしいです。
海といえば、原子力潜水艦。
ここで引用します。
さまざまな兵器のなかで最も高価なもののひとつで。ソ連は50年代の末期、フルシチョフの時代に無理して原潜を作りますけれども、それが国家財政を大きく崩していくわけで。しかもその原潜っていうのがいかに悲惨なものだったかってこの間『K−19』でしたっけ、映画で公開されましたよね。大体史実に忠実だと思いましたけど、あれは本当に起こった原潜事故ですよね。
いま中国はそのあたりにいて。いまの中国の原子力潜水艦ぐらいだったら壊されちゃう。で、だけどそれをさらに本格的な原潜の方に持っていくっていうことになると大変な負担になりますね。中国にとって核はいまお荷物だって言っても言いすぎじゃないと思います。
(「『正しい戦争』は本当にあるのか」p100)
中国の経済成長は著しく、中国も本当はこんなことに費用をかけたくないというのが本音である、というのはわかる気がします。
それが1国だけでなく、軍拡競争になれば、周辺諸国もものすごい費用がかかることになります。
バカくさいですよね。
最後の原潜保有国はアメリカになるんでしょう。
勝手にやってください!
アメリカのウソ
アメリカの軍事行動の理由によく「民主化」を掲げますが、過去のそれぞれの国の民主化はむしろアメリカが足をひっぱったこともあります。
その事例を次に引用します。
フィリピンのマルコスを追放したとき、レーガン大統領はマルコスを支援する側にまわっていたわけで、国内のマルコスを追放する運動が激化したので、ワシントンはその事実を認めざるを得なくなっていく。韓国の87年の軍政崩壊も、アメリカの政策の結果とは言えません。アメリカから見れば、北朝鮮に対抗する政府ならデモクラシーじゃなくてもよかった。インドネシアのスハルト政権の崩壊は87年の通貨危機による経済的混乱が引き金になりますが、それでもワシントンが壊したわけじゃない。この辺の民主化の例は、どれも国内の要因から説明できます。
(前掲書p121)
それからソ連にも少し触れます。
東西の冷戦はアメリカの圧力で終わったというのは、誇張のしすぎなようです。
東側の崩壊は、何といってもゴルバチョフの登場にあります。
ブレジネフの末期、アンドロポプ、チェルネンコの時期から、ゴルバチョフの時代にかけて、アメリカのレーガン政権は圧力をかけながら交渉も模索しました。
しかし、最初にゴルバチョフ政権の緊張緩和政策に乗ったのは、アメリカではなく、ヨーロッパの国々です。
なぜなら、もし冷戦ではなく本当の戦争となると、戦場となるのはアメリカではなく、ヨーロッパとなる確率が高くなり、このことから西ドイツとかフランスが、アメリカの強硬な反ソ政策を警戒していたからです。
ヨーロッパ各国は、このソ連の態度を歓迎し、逆にワシントン側は、あんなのは偽物だ、ゴルバチョフ政権は見掛けだけだと、レイキャビックの米ソ首脳会談でも強硬姿勢を崩しませんでした。
その後、積極的なゴルバチョフ政権はアメリカに行って、IMF条約(中距離核戦力全廃条約、これによってヨーロッパはソ連の核の恐怖から解放される)を結び、ゴルバチョフは平和の使徒、という感覚を世界的に受け、逆にアメリカは、世界中に対して影響力が下がります。
これによって、ソ連の衛星国であった東欧諸国がゆるみはじめます。
最初はハンガリーで、共産党政権のまま複数政党制を導入し、さらに国境の規制を取り除きます。
そうすると東ドイツの住民がハンガリーからオーストリアへ流れ込む事件が起き、このような状況は東欧全体へと広がります。
ゴルバチョフがどうして緊張緩和路線に踏み込んだか?っていうのは3つあり、アフガニスタン問題、ソ連の衛星国維持問題、アメリカとの軍拡問題、これらの対費用効果ともいうべき経済問題が理由となったようです。
以上、大雑把に書きましたが、これは第4章の「冷戦はどうやって終わったか」に書いてあります。
レイキャビックのアメリカの行動を見れば、ゴルバチョフの行動に最もうろたえ、そして最も嫌がったのはアメリカだったのかもしれません。
日本の外交政策の成功の一例
汚点だらけの日本の外交にも、成功したものもあるんですねえ。
ベトナム戦争後のベトナムで、です。
日本は戦争後のベトナムに経済援助を与え、西側に引き寄せようとしますが、最初はうまくいきませんでした。
この時アメリカは、日本の行動を批判しますが、アメリカはベトナムで敗戦してますから、ベトナムに何ら行動をおこせません。
この後、ベトナムはカンボジアに侵略し、中国政権の支援してきたポル・ポト政権を打倒、中国はベトナムを侵略します。
再び、日本は経済援助をするからカンボジアから手を引け、と提案し、米ソ冷戦終結、すなわちソ連の後ろ盾を失ったという背景もあり、ベトナムはこれを引き受けます。
日本単独ということではなかったのですが、しかし、アメリカを離れた日本外交の成功例の一つです。
そこを示す記述を少し引用します。
日本、オーストラリアとASEANはこれを利用して、経済援助をえさに、カンボジアのプノンペン政権から兵力を撤退させた。中国にも呼び掛けて、中国もクメール・ルージュ、ポル・ポト派に対する支援から手を引きます。おかげでベトナムと日本やASEANとの関係は好転して、そのあとのASEAN加盟の筋道を作る。カンボジアでいえば、中国とベトナムの代理戦争の振りまわされる状態が終わって、内戦を終わらせる展望も開いた。日本外交が独自の役割を果たした、めずらしい例です。
(前掲書p279)
やるじゃないですか、日本も!
これは、本の最後のほうのさまざまな外交交渉の提言へと続きます。
日本が単独でイニシアティブを取れば、第2次大戦のこともあり、反発を買うことになると。
そこで、ベトナムの件のような多国間交渉を利用し、その交渉の中で日本の経済力を利用すれば、それほどアメリカの核抑止に頼る必要もなくなる。
さらにそんな協議に中国を誘い込めれば、一気に東アジアの緊張は緩和するんじゃないかと。
ここで思いつくのは北朝鮮で、そのことも書いてあります。
しかし、拉致問題の双方の硬化で北朝鮮問題は進展しないでしょう。
あ〜あ、この拉致がなかったら、今頃、東アジアはもっと経済繁栄していた、と私は思いますよ。ホント。
戦争という手段を使わない外交、という内容の本で、なかなかヒントになるものがたくさんあったように思います。
(2004年4月25日)
加筆
「K−19」について紹介します。
これは1961年に起きたソ連の原子力潜水艦の事故を描いた映画で、ソ連崩壊までの28年間封印されていた実話です。
アメリカ映画で、俳優もアメリカ人、セリフも英語。
それでも見る価値があると思います。
以下、大雑把なストーリー。
金がないのか、いろんな準備も不備で工事も杜撰、その上、全くのテスト航海もしないで、いきなり実戦配備。
いろんな訓練をし、目的どおり威嚇のミサイルを発射。
悲劇はその後に起こる。
原子炉の冷却水が水漏れし、炉心溶融の危機に。
冷却水の漏れている配管を修理することになるが、なにせ準備不足で放射線の防護服もなし。
慰めにビニールカッパみたいなものを着て、原子炉の水漏れ部の溶接工事をする。
2人が10分ずつ3交代で、30分の作業。
悲壮感漂う描写がその恐ろしさを物語る。
水漏れ工事は一応完了し、炉心温度は無事下がる。
が、溶接工事に関わった6人は、瀕死の重傷。
艦内は放射能汚染を起こし、不幸はさらに続く。
溶接工事した場所が再び水漏れ。
核爆発の危機。
場所は西側基地の近くで、しかもアメリカの駆逐艦がそばにいる。
ここで核爆発を起こせば、ソ連へアメリカのミサイルが飛んでいくという事態になる。
そこで深海に潜航し、回避しようとする。
深海で自爆すれば、巻き添えがなくなるからだ。
しかし潜航しながら原子炉修理をしていた原子炉の責任者がいた。
実は最初の修理工事でおじけついて、そのメンバーに加わらなかった原子炉の責任者であったのだ。
1人で18分も原子炉の中にいて修理完了し、再び浮上し、帰還する。
原子炉に入った人が、間もなく死んだというのは言うまでもない。
(2004年4月30日)
池田大作解読
佐高信さんとテリー伊藤さんの共著「お笑い創価学会 信じるものは救われない」のことを今日は書きます。
これはかなり古い本ですが、私が読んだのはちょっと前のことです。
私はもともと宗教なんてバカにしてますから、宗教に関わる本なんて読む気もありませんでしたが、「お笑い」と題名にあるので、これはきっと創価学会をバカにした本だろう、と想像しました。
でも、テリー伊藤さんの「お笑い」って、ぜんぜん笑えないんですよね。
内容は彼らの対話方式で、その対話の基本となる「テキスト」を載せています。
そのテキストがなかなか良いもので、特に井田真木子さんのものが秀逸です。
この本の目的は、創価学会のF票(フレンド票。学会員の友達、知り合いの票のこと。いわゆる浮動票)を引き剥がすことと、はっきり謳ってます。
前回のつぶやきは、カトリックの教義厳格主義を人口問題から考えましたが、カトリック右派だけを批判してもバランスが取れませんから(なんのこっちゃ?)、今日は、日本の急進的宗教勢力の創価学会についてで、ついでに上記のF票剥がしにも協力したいと思います。
創価学会の基本的な知識らしいので、知っている方は読まなくていいと思います。
私同様、「無知の方」向けです。
池田大作の基礎
池田大作の前の会長は、戸田城聖という2代目会長ですが、戸田の残したことがものすごく大きかったようです。
一つは、欲望の全面肯定。
それを端的に示す文章を引用します。
次に述べるのは、戸田が敗戦後まもなく全国を遊説してまわっていたとき、当時は別の宗教団体に属していた女性が、戸田をかこむ座談会(学会でいうところの集会)に出席したときのエピソードである。
「その頃、属していた団体の“先生”は、座談会の壇上にのぼると、それまで先生の方を向いていた扇風機を聴衆に向けて、皆さんもどうぞ涼んで下さいとおっしゃるのです。しかし、戸田先生の集会に出ると、先生は扇風機を自分のほうに向けて、『見ましたか。皆さんひとりひとりが、こうならなくちゃいけないんですよ』とおっしゃる。そのとき思いました。これは戸田先生の勝ちだ」(中略)
しかも、戸田の布教の対象を“ロー・シーリング・クラス”、言い換えれば何をやっても上にあがれないと自らの頭打ち状態を諦めきった、“ロー・シーリング・クラス=天井が低い”な未組織労働者や、産業ベルト地域の中小商工業で働く若者などの貧困層にしぼっていた。
(「お笑い創価学会 信じる者は救われない」p44)
つまり、欲望の全面肯定というテーゼは、この「ロー・シーリング・クラス」にとって、まばゆい光だったのです。
池田大作は一人では何もできない?
戸田がもう一つ池田大作へ残したものは、上記の方法で獲得した学会組織です。
池田大作は戸田に会った時点から、過剰の欲望を発露することを恥じない自分を、学会組織という閉鎖された空間で育てたようで、それが池田大作のすべてであり、決してそれ以上ではないようです。
学会組織の中での“先生”の行動を挙げれば、たとえば、彼の著書の多くはゴーストライターによるものらしく、また、学会員にピアノ演奏を聴かせるのが好きだといいますが、実はピアノの下に著名な演奏家のテープを潜ませ、彼は鍵盤に指を走らせているだけとか。
つまり、自分では何もしていない・・・・。
しかも臆病さも相まって、公の場には決して姿も見せないようです。
次ように佐高氏とテリー氏は「口撃」しています。
文中の「折伏(しゃくぶく)」とは、強い論破による宗教への勧誘方法のことだそうです。
佐高
国会に喚問するという話が自民党から持ち上がったとき、公明党は大騒ぎになった。なんとしても、そんなケースは避けたい。それが、自自公連立政権への大きな流れを作ったと思うよ。
でも、そんなに権力が欲しいなら、そんな自分に自信があるなら、国会で堂々と反論すればいい。最高の折伏の場でしょう。国会議員ぐらい折伏できないでどうするんだと思うけどね。
以前、池田大作は「月刊ペン裁判」で証人として出廷したことがある。それを取材した記者から聞いたんだけど、あまりに威厳がないんで驚いたというんだ。ペラペラ軽い感じで話して、裁判長に媚びる。これが池田大作か、とびっくりしたという。
そういう経験が表に出ることが嫌になったと思うよ。
テリー
その臆病さがあるから、今日の地位を維持できているんですよ。
佐高
ああ、なるほどね。
テリー
外部に出てこない。接触しない。組織の中だけで権威づけをする。臆病だから、どんどん反対勢力を切っていく。ノホホンとしていたなら、こんなに長く君臨していられなかったと思いますよ。
(前掲書p212)
学会女性にモテる池田大作?
創価学会の人事権は、池田大作が握っているのですが、その人事は大抜擢方式。
これがまた格別で、面白い記述を引用します。
「学会というところは、どんな末端の信者にも上にのぼる機会が与えられているように思えるところなんですね。実際にそういう例も多い。たとえばの話ですけど、それまで近所の小売店のおかみさんだった人が支部長になるとか、そういったことですね。女性って男性と比べて不利だって、どこか越えられない壁があるんだと思ってるでしょ。学会ではその壁に小さな穴があいている。そこから這いのぼれば上にいけるのよ、と、実際上にのぼった人たちは言うの。でも、それを池田先生のお心次第なのよって」(中略)
「とくに女性の場合には、いわゆる何段抜きというような大大抜擢なんですね。そして、抜擢されたのは、池田先生みずからが目をかけたからだと、学会の女性ならすべて経験的に知ってますから、抜擢イコール、先生のおそばに侍ること、誰よりも近くに寄ることだと思っている」(中略)
「女性のスキャンダルが出ることは、彼女が抜擢された証拠なんですから、いやらしいわ、じゃなくて、うらやましいわ、いいわねえ、くやしいわねえになってしまうの。そういう構造になってるんですね」
(前掲書p57)
一家全員が学会員の場合、母親の方が熱狂的なケースが非常に多く、夫が少しでも池田批判をした時、そのことを学会へ密告することもあるのだそうです。
学会側はこのような密告を大歓迎で、“ロー・シーリング・クラス”で、しかも家庭内では夫に“敗れてきた”女性ほど、池田先生のほうを選択する、という心理的な構造を利用することによって、池田大作は女性学会員を掌握してきました。
さらに、次のような消費行動における心理も、それに拍車をかけています。
セールスにおける心理調査のひとつとして、内容に見合わぬ過大な価格の商品を買わされた消費者は、むしろその商品の擁護につとめるものだという結果が出ている。学会の女性たちは、末端においても幹部クラスにおいても“池田先生”という商品を買い取るために、それぞれ多大な犠牲を払ってしまった。いまさら、それを否定すれば、彼女はまた、元通り、家庭内権力闘争に敗れた家政婦がわりの人間になってしまう。
それだけはごめんだ、私は負け犬になりたくない。その気持ちが、学会の女性たちに通底するものである、“池田先生”は彼女たちの負の要素を利用して、実にうまく女性たちを財務集めに、亭主や不満分子の監視役に、また選挙対策に追い立てるのである。
(前掲書p62)
最も悲惨なのは池田教から覚醒した学会2世で、両親が熱狂的な信者だと「帰る家」というものがないわけで、閉鎖された学会社会ゆえ「自殺か、諦めて池田のいいなりになるか」という選択を迫られることもあるようです。
以上が、井田真木子さんが書いた「池田大作 欲望と被虐の中で」の内容の一部で、池田大作の創価学会の基本的な支配戦略です。
本当は全文紹介したいほど素晴らしい論文なんですが、そんなことは無理なので、読んでない人はぜひ買って読んでほしいです。
「お笑い創価学会 信じる者は救われない」は、たった495円+税金です。
この井田さんの論文の初出誌は、「諸君」1996年4月号です。
それにしても上手ですよね。
「欲望」の使い方がホント上手です。
変な新興宗教や詐欺的な商売って、人間のこんな心理的な作用を利用しているんでしょう。
「あなたのまわりにこんな危険は潜んでる」という私も、いつのまにか騙されていたりして。
もしかしてこれを読んだ学会員がいたら、抗議のメールが来るでしょう。
まあ、そんなに抗議ばかりしないで、少しは批判を受け入れるおおらかさを身につけてください。
次回もありますから、お楽しみに!
(2004年5月17日)
利用される学会員
学会の人格攻撃
創価学会の世界には独特の論理がある。「辞めるか辞めないかは、自分で決めることではない。任免は池田大作会長の意思であり、勝手にやめるのは、不遜の極みだ」というものだ。
(「お笑い創価学会 信じる者は救われない」p57)
これは竹入元公明党委員長が1998年に朝日新聞紙上で、「秘話・55年体制のはざまで」と題した回顧録に載せた文章です。
確か、自民党の議員たちは「辞めるか辞めないか(進退)は、自分で決めることである」と言っていましたよね。
その自民党と公明党が組んでいるというのは、気持ち悪いですね。
回顧録は12回掲載され、これに対し学会側は、公明新聞(公明党機関紙)や聖教新聞(創価学会機関紙)で、「天下の変節男」「欺瞞の天才」「畜生以下の非道」「泥棒野郎」「銭ゲバ」「ヘビ」などと、竹入氏のことを呼んでいます。
竹入氏の回顧録は、ただ単純に公明党の内部を批判したものではないというもので、このことを記したおおもとの山田直樹さんの論文「創価学会・公明党 竹入元委員長攻撃の狂気」(前掲書p94〜、初出誌は「文藝春秋」1999年1月号)を読めばわかります。
さらに、竹入氏への人格攻撃は続きます。
「最近判明したことですが、竹入の女房の兄弟が二人続けてガンでなくなった。まさに地獄の形相だった。悪にみいられた竹入、そして女房は地獄に落ちる」(要旨)
婦人部幹部会等での幹部らの発言である。
(前掲書p106)
普通こんなことを言いますか?
まだ、あります。
藤原弘達さんの「創価学会を斬る」は、創価学会や公明党が著者や版元、書店に圧力をかけ、出版妨害に遭いました。
これは共産党の「赤旗」がスッパ抜き、日の目を見ています。
この藤原さんは1999年に亡くなっています。
その他界した日のことです。
充子夫人によれば、その日、夜中じゅう、「おめでとうございます」という電話が続いたという。
「週刊新潮」の2000年3月30日号で彼女は、1969年秋に出た「斬る」をめぐる出版妨害を振り返りながら、「あの時は段ボール箱に3箱以上の嫌がらせの投書が来ましたし、警察がうちの子供に警備をつけなくてはならないほど脅迫が相次ぎました」
(前掲書p121)
思わず読んであっけにとれらました。
いや、私の周りにはほとんど学会員なんていませんから、私が知らないだけでしょうが、こんなことは日常茶飯事に起きていることかもしれませんね。
公明党は政党ではない
竹入元委員長の言葉を冒頭に掲載したように、このことからすでに池田独裁党であることがわかります。
すでに他界した創価学会ウォッチャーの一人、内藤国夫氏の発言を佐高氏はこう書いています。
「そもそも、公明党には『立候補システム』がない」と内藤は指摘する。30年経っても、それは変わらない。上御一人(かみごいちにん)の任命制だからである。
また、公明党は批判されることが特に嫌いな政党で、議員も部外者の批判にヒステリックに反発する。「批判恐怖症とでもいうのか、自分たちほどその真意が理解されず、つねに誤解され続けているグループはないと信じこんでいる」とも内藤は断じている。
(前掲書p131)
創価学会をはじめ、公明党に至るまで、上部への批判が許されない組織では、その構成員に考える力がなくなっていると言われ、また、それにともなって判断する力もなくなっているといいます。
最悪の場合、良い悪いの判断が、“先生”に反するか否かの判断に置き換えられている、と言えるのでしょう。
佐高氏は、次のように痛烈に公明を批判しています。
再び引用。
公明党が政教分離しているかどうかなんてじつに簡単な話なんだ。公明党の人たちに、「あなたは池田大作」を批判する言葉を吐けるか」という質問をすれば一発ですよ。彼らにそんなことはできないわけだ。政党人が批判できない人物を持っている、しかも全員。そんなものが政党であるはずがない。
いちばん力を持っている人物を批判する自由がないというのは、なんの自由もないのと同じことなんだ。
(前掲書p137)
財務と選挙でボロボロにされる学会員
学会用語の「財務」とは?
この本では、ヤクザの「上納金」に例えています。
まあ、寄付金のことでしょう。
その集金システムも、池田“先生”への忠誠競争をあおるという手法を、上手に用いています。
引用するのは元信者の手記(「池田学会 イニシエーションの恐怖」)で、湯野重さんの書いたものです(前掲書p184〜、発出誌は「文藝春秋」1996年3月号)
山口市に創価学会文化会館が完成した時にも、建築のために財務をした家内は会館に呼ばれ、そこで幹部にこんなことを言われました。
「十年後には、あんたたちはお金をいっぱい懐に入れて、札束を切って歩けるような身分になるんだよ」
私たち夫婦はこれまで一千万円以上の財務を行ってきました。学会の中では、いかに多くの財務をするか否かで信心の強弱がはかられます。学会員たちの座談会の中では常にそんな話が交わされているのです。
(前掲書p190)
この心理作用は、「池田大作解読」で紹介したように、割に合わない、多大な犠牲を払った場合に、その犠牲を擁護する、というセールス心理調査の結果をみても、特に女性に効果大なのでしょう。
湯野さんの手記では、選挙時の悲惨だった体験も書いています。
風邪で夫婦両方とも寝込んでしまっても、選挙活動は容赦なし。
しかも幹部であったため、学会員の指導ための家庭訪問、さらに「聖教新聞」の配達まであり、寝る暇がなかったといいます。
寝込むほどの風邪とは、それほど重い風邪なわけで、実際に「ここまでせんといけんのですか」と、さらに上の幹部に質しても、「湯野さん、それは信心だからネ」と相手にされない。
ホント、「ここまでせんといけんのですか」と言いたくなる気持ちはわかりますね。
まさに命懸けの選挙です。
学会員は、どうも「信心」という言葉に弱いようで、「信心が悪い」と言われ、自分で考えることなく、幹部の言うことを鵜呑みにし、日々の生活から仕事まで幹部の指導によって決められていく、と湯野さんは振り返っています。
おもしろいのが、「水のイニシエーション」。
それは池田“先生”が一口飲んだ水の入ったコップを有難がってみんなが回して飲むというもの。
飲めば、池田“先生”に対する忠誠なわけで、それに鈍感だと、さあ、大変!
湯野さんにその大変が起きてしまいました。
池田がふいに私に飲みかけのコップを差し出すので、何だろうと考えていたら、池田はプイと横を向いて歩いていってしまいました。いま考えると、あれは飲め、という意思表示だったのでしょう。私は、知らず知らずのうちに、池田のイニシエーションを拒否してしまったのです。
(前掲書p201)
学会員のみなさん、気をつけてください!(笑)。
湯野さんの家族は脱会し、それでも日蓮大聖人の教えに近づくことはできる、と断言しています。
損をしている学会員
一般に創価学会に入信する人は、真面目な、あるいは純真な人が多いようです。
そうでなければ、騙されたとしても、これほど忠誠することなどないはずです。
冒頭からもわかるように、創価学会の人格攻撃は目にあまるものですが、この防波堤になっているのが、末端の学会員。
さまざまな批判が載る雑誌は、できるだけ他の一般人の目に触れないように、買い占められるとか。
それは当然学会員の自腹なわけで、創価学会批判も得意分野だった「噂の真相」の買占めで、岡留編集長は売り上げが増えるから悪くはない、と言ったとか言わなかったとか。
学会批判を掲載した雑誌社に、広告を出している会社がたくさんあるわけで、そんな会社に圧力をかける。
その圧力の実力行使として不買運動が起これば、消費者としての学会員にとって、本当はその商品が良いと思って使っていても、それも使えなくなる。
これは「その商品を使いたい」という欲望の否定になるわけです。
このから、創価学会の特徴である「欲望の全面肯定」は、池田大作個人だけのものである、ということがわかります。
ホント、末端の信者は大変ですネ。
しかも、湯野さんの例は深刻を極めます。
「休みたい」という生命維持の欲望まで、否定されているからです。
池田に対する「信心」という言葉に操られて。
そもそも池田に取り入ってもらうという「欲望」を満たす前に、死んじゃったら意味ないですよね。
「欲望の全面肯定」のはずが、「信心」のため、ほんの小さな個人の「欲望」は否定され、自分の思考・判断を失い、さらに財務でカネが奪われ、時間が奪われ、しかも批判の防波堤にならなくちゃいけない。
ホント、「信じる者は救われない」。
学会員はこのことをしっかり考えるべきです。
最後に「創価学会」でGoogleでWebを検索してみますと、1番目に「創価学会公式ホームページ」、2番目が「創価学会による被害者の会」で、あとは不気味なほど創価学会の各支部が続きます。
2番目の「創価学会による被害者の会」では、ヤフーの個人情報流失事件で逮捕された4人のうち、2人は創価学会の幹部だった、ということが載っています。
これは驚きで、ヤフーBBに加入している方は、創価学会の折伏や選挙には気をつけましょう!
以下二つは、検索の上位に出た学会問題のサイトです。
創価学会独立独歩
創価学会問題新聞(←リンク切れ)
(2004年5月18日)
SNITCH CULTURE
邦題「監視と密告のアメリカ」という本は、田中宇さんが監訳したもので、著者はジム・レッデンさん。
原題は「SNITCH CULTURE」。
これがものすごく恐ろしいアメリカ社会を映し出しています。
「snitch」とは、goo辞書で調べると、名詞なら「密告する者」とあります。
すなわち、「snitch culture」は、密告文化とでも訳すんでしょうか。
まあ、そんな感じなのでしょう。
アメリカのそのcultureなるものを、この本では紹介しています。
密告文化
監視の機械的システムの代表的なものがエシュロンですが、その人為的システムが密告。
アメリカ合衆国自体が密告奨励政策を行っており、虚偽の密告で一般市民が犠牲になっています。
エシュロンについては、映画「エネミー・オブ・アメリカ」を観れば、大枠の理解を得られると思います(映画ですから、かなりの誇張もありますが)。
それでは、一般市民が虚偽の密告によって犠牲になった例を引用します。
1992年のうだるような夏の夜、サンディエゴの自宅にいたドン・カールソンは、誰かが玄関のドアを叩き破ろうとしている音を耳にした。玄関をすぐ入った部屋には物がほとんど置かれていなかったため、その音は部屋中に響き渡った。離婚したばかりの妻に家具をすべて持っていかれたせいでむき出しになった壁と床に、バンバンという音が反響している。
身の危険を感じたカールソンは、拳銃を手にするとドアに向けて二度、引き金を引いた。だが、銃弾はドアを貫通せず、ドアを破ろうとする音は一層激しくなった。すでに蝶番が壊れはじめている。カールソンは恐怖にとらわれ、きびすを返して部屋から飛び出した。だが、廊下のなかほどで銃弾が腿に突き刺さった。転倒したカールソンはなんとか立ち上がり、よろよろと寝室に入り込むと携帯電話を引っつかみ、倒れ込みながら「911」と通報した。背中にさらに二発の銃弾が撃ち込まれ、そのうち一発が肺を食い破った。
「動くな!もう一発食らいたいか!」という荒々しい声が聞こえてきたが、カールソンにはすでにわかっていた。彼らはおそらく自分を生かしておくつもりはないだろう。
連邦麻薬捜査官だと名乗ったその男は、連れの数名とともにカールソンに手錠をかけ、出血の手当てもしないまま床に放置して家の中を片っぱしから捜索しはじめた。「なんで私がこんな目に・・・・」カールソンは瀕死の息でつぶやいた。自分は一市民としてまっとうに生きてきた。コンピュータ会社の役員を務め、法を破ったことなど一度もない。
しかし、彼の家に踏み込んで銃弾を浴びせた十数名の麻薬取締り局(DEA)の捜査官と関税局員、サンディエゴ警察の警官たちは、そんなことなど眼中にないようだった。彼らはカールソンが自宅に2,500ポンド(約235キロ)のコカインを隠し持っているという情報に基づいて行動していたのである。
この情報をもたらしたのは元麻薬の売人のロニー・エドモンドというタレ込み屋で、現在は連邦政府から2,000ドルの報酬を受けて麻薬取引に関する情報提供を行っていた。だが、カールソンの件に関するエドモンドの情報は“ガセ”だった。エドモンドはカールソンの家に麻薬がないことを承知の上で、コカインが見つからなくてもまた別の言い逃れをするつもりだったのだ。
(「監視と密告のアメリカ」p18)
見に覚えのない罪を押し付けられるとは!
アメリカは冤罪だらけのようですね。
しかも密告が偽証だとわかっても、それが罰せられることは少ないということは、次の文章からわかります。
被告弁護人が検察側の偽証やその他の深刻な不法行為を暴くということも常態化している。
司法省の弁護士による「法の基準、適用されるべき職務規定、省の政策に関するあらゆる違反」に対する不服を調査する目的で1975年に設立された「職務責任局(Office
of Professional Responsibilities)」には、これらの被告弁護人から送られてくる書類が後を絶たない。しかし、記事によると同局はまったく機能していないという。「職業責任局に不服を申し立てた被告弁護人200名近くに取材したが、大半が、不服申し立てには根拠が認められないという回答の書簡を受け取っただけであった。しかるべき対応がどのようなものかが明らかになった例はない」
このため、検察は立証のためにいくらでも虚偽の密告を利用することができる。たとえ発覚しても咎められる心配はない。「偽証の利用で連邦法執行官が得られる利益は大きく、違反で失うものはほとんどない。そのために、連邦法廷で偽証がはびこる深刻な事態になっている。偽証した者が処罰される例は稀で、見てみぬふりをしたり、偽証だと知りつつ利用した法執行官もまず罰せられることはない」
(前掲書p45)
政府が報酬を与えた密告文化の最も古いものは、古代ローマのドラントール(delantor)と言われ、最も有名な密告者は、聖書に登場するユダ・イスカリオテ。イエスの弟子でありながら、銀貨30枚と引き換えにローマ人に密告しました。
今やその密告は、虚偽のものも含めてデータベース化されおり、一度登録されると消すのが大変らしいのです。
それがたとえ匿名の電話であっても、です。
学校でも密告文化を育てている
そして極めつけは、このsnitch cultureが学校社会にまで、根を下ろしていることです。
子供にも密告を奨励していて、これじゃ、友達にも、うかうかなれませんよね。
それも報酬付きって言いますから、あきれてしまいます。
そんなものなのかなあ?
その文章を2点引用します。
犯罪防止インターナショナル(CSI)は全国のハイスクールに「学校犯罪防止の会」という支部も設け、他の生徒の密告を行った生徒に報酬を与えている。特に高額の報酬が支払われるのは校内・郊外で実際に犯罪をおかした生徒の関する情報に対してで、そのほかに校則を破った生徒の密告にも報酬が支払われる。オレゴン州セーラムのマッケイ・ハイスクールのレイ・メイヨラル校長は、1995年から1999年にかけて3000ドル程度を支払ったはずだと述べている。「子供や親のなかには、学校が刑務所のようになっていると批判する声もありますが、ほとんどの子供たちは、これで安全が確保されているのだと理解しています」
(前掲書p103)
密告文化の未来を知りたければ、アメリカの公立学校に行けばその一端を垣間見ることができる。近年は、公立校における密告はほとんど“義務化”されている。生徒同士の監視が奨励され、問題を起こしそうな生徒に関する密告に賞金を支払っている学校も多い。制服の警官が廊下を巡回しながら生徒の密告を待ち受け、壁や天井には高性能監視カメラが据え付けられている。少しでも不審な点のある生徒を匿名で密告するための専用電話が設けられ、学校側は、生徒が個人で開設しているホームページまでチェックしている。
(前掲書p185)
子供の教育を間違えば恐いもので、映画「キリングフィールド」を観れば、それがものすごくわかります。
クメール・ルージュの子供軍団は最も信用できない、と確か表現されていたと思います。
子供の時点から変な教育を受けていて、その子供が銃を持ち権力を持つ、となると、そりゃ、どうにもなりません。
なんとなくですが、「キリングフィールド」とアメリカの密告文化の背景がダブって見えるのは、私だけかなあ?
反グローバル=テロリスト
もしここがアメリカ