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大家族を見直す
カップラーメンとコンビニ
住民基本台帳ネットワークよりも恐いシステム
ブードゥー・サイエンス 再び
銀行の仕事とは?
新しい産業の負の側面
規制
靖国神社あれこれ
ハンナン事件から差別を考える
信仰もほどほどに
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大家族を見直す

先日、ローカルニュースで、岩手県の人口動向を伝えていました。
それによると、人口は減少しているようですが、世帯数は増加しています。
つまり、核家族化が相変わらず進んでいて、1世帯あたりの人数は少なくなっています。
世帯数を増やして、消費を伸ばすという政策は、物質には限りがあり、そして完全なリサイクルが確立されていない現在において、無理な話です。
なおかつ、経済成長とともに伸張した賃金上昇が、産業の空洞化を招き、景気は後退。
失業率は、昨日のブルーグバーグニュースによると、まだまだ伸びるとの予測です。
ここで、核家族化の進行は憂慮すべき事態ではないか、と私は思います。

家族は、社会の最小構成単位であり、助け合うという原点がここにあります。
核家族化で、世代間の助け合いというのが希薄になり、いつのまにか年金制度も「もらわなければ損」「将来もらえる額が少ないなら、年金は払わない」という考えの人が、多数を占めるようになりました。
国民年金制度の発足時、全く支払いのない老人も、小額ではあるけれども年金を受給しています。
このように世代間で助け合うという思想のもとに年金制度はあるのです。

私の住んでいる地区に、ある謙虚な老人を知っています。
この方は戦争から生きて帰ってこられた人で、軍人恩給(正確な呼称はわかりません。そう言われていますので)と年金をもらえたのですが、養ってくれる家族がいるので、年金だけでたくさんだ、ということから軍人恩給を断っています。
「もらえるものは何でもほしい」という政治家を筆頭とするあらゆる人たちに比べると、非常に謙虚で、公金の重要さをよく理解している、と言えるでしょう。
そして、この行動は、家族がいるからできることであって、老人単独世帯ではできるものではありません。
このような事例にこそ、社会福祉制度の負担を軽くするヒントがあるように思います。

大家族では人数が多いゆえ、助け合いだけでなく、リサイクルを自然にしていることもあります。
3世代同居となりますと、子供が大きくなったら着なくなる作業服(ジャージなど)を、今度はその家のおじいちゃん、おばあちゃんが着ている場合もあります。
子供は大きくなり、老人は小さくなりますから、ちょうど体格が合うのです。
また、普通の核家族では捨てられようなものを、老人は時間がありますから、リサイクルして別のものに使ったりします。
こういう知恵は代々受け継がれるものなのです。
リサイクルとは違いますが、食事でも無駄に捨てられるものが少なくなる、という大家族の利点が出ることは明らかです。

このように、無駄をなくしてリサイクルをするということは、現在の政策である消費強制経済成長主義に反するものです。
しかし、私たちが世代をつないでいくことを考えるにあたって、どちらがより適当なものなのでしょう?
私は「消費が低迷しているから、・・・」という今の経済の方向性は、間違っていると思います。
家族間、世代間で子供に対し、「無駄はするな、モノは大切にしろ」と教育していくことと比較すれば、今、政治がしようとしていることのほうが、はるかに異常です。

景気後退、失業率上昇で、家庭内の収入は減る一方でしょう。
そこで、やはり消費支出を減らし、世代間で助け合うという大家族化の復活を目指すのはよい方向だと思います。
少子化対策という政策が実行されているからには、大家族化促進政策もあっていいと思います。
将来を見据えるならば、少子化対策よりはずっと理にかなっています。

その家の初代は、おじいさんにしろ、おばあさんにしろ、わがままです。
それは、自分が先代にたいして気を使うことが無かったからです。
2代目夫婦はそのような気苦労を知っていますから、自分たちの子供夫婦には余計に気を使います。
この日本には、5世代同居という家族もいます。
家族という最小社会でうまくやれなくて、どうして一般社会でうまくやっていけるのでしょうか?
結婚して夫婦水入らずでルンルンしたいというのはわかりますが、子供ができて何年かしたら、両親たちと同居したほうが私はいいと思います。
(2002年3月27日)



カップラーメンとコンビニ

北海道瀬棚町の話題から入ります。
瀬棚町のAコープ(農協?)では、カップラーメンが当然のように売られているわけですが、その値段には驚きました。
なんと140円以上なのです。
定番の日清カップヌードルも同額。
宮古ではいくらしたっけなあ?と考えると、確か110円ぐらいだったような気がします。
定価はいくらなのか知りませんが(誰も知らない?)、瀬棚はかなり高い。
でも、野菜類は宮古とほとんど変わらないと思いました。
カップラーメンは、東京などの都会ほど安いのでしょうか?
瀬棚の平均所得は、都会に比べるとかなり安いはずです。
ところがカップヌードルなどのインスタント食品はかなり高い。
それでも生活を維持しているということは、地元で生産する食材を用いて手作りの料理を作っている、ということなのでしょう。
そこで、健康に及ぼす食品の影響を考えると、はるかに瀬棚のほうがいいことになります。
人々が健康であるということは、社会的な負荷もかなり低いのはずです。

話は変わってコンビニ。
コンビニの商品は、一般のスーパーや商店などに比べて高い。
それでも人気があるのですが、まあ、利用年代を調べれば、恐らく若い世代ほど利用しているのでしょう。
所得にもよりますが、結婚して子どもができるとコンビニの商品は高いと自覚できるはず。
そうなるまでは、コンビニ商品を高いと思わない、あるいは、高いと自覚していも手軽だから利用する、といった具合だと思います。
それほどコンビニ利用者は、金銭感覚が麻痺しているのかもしれません。
逆に言えば、この金銭感覚の麻痺を利用した商売が、コンビニなのでしょう。
旅に出てコンビニで買うものは、私の場合、新聞くらい。
新潟の港付近にあったローソンでは、私は嫌な客の一人であったかもしれません。
新聞しか買わなかったですから。

高くても売れるものがコンビニで、手軽さが売り。
つまり、便利さを買っているわけです。
車で行って、あるいは寄って。
もし自動車社会がなかったら、田舎の場合は、コンビニなんて存在しません。
バブルは崩壊しましたが、今でも人々の心の中はまだバブリーで、まだ「何とかなって」います。
「何とかならなくなって」行動を変えたときに、コンビニは衰退するのでしょう。
まあ、「何とかならなくても」行動を変えないのが、現在の消費者なのですが。

政府は、経済が好転するようにカネを使ってくれ、と国民に叫んでいますから、政府の感覚はやはりバブリーというほかありません。
しかし、瀬棚町の例とコンビニを比べたとき、金銭感覚のあり方も問われるべきだ、ということがわかると思います。
この両者が噛み合わないうちは、まず財政運営は悪化し続け、経済は上向くことはない、と私は思います。
(2002年7月28日)



住民基本台帳ネットワークよりも恐いシステム

住基ネットのさまざまな議論、そして、住基ネットからの離脱などがありますが、最大の問題点となっているのが、個人情報流出、国民監視システムへの危惧です。
ハイテク国民監視システムとして有名なのがNシステムで、警察権力による監視カメラを用いた自動車移動監視システムです。
警察権力による監視カメラは、他にオービス、駐車禁止カメラ、交差点監視カメラなどがありますが、最近は、自動車から歩行者へ、監視の目が向けられ、IRシステムといわれるものが登場しました。
歌舞伎町監視カメラ、スーパー防犯灯、コンビニ防犯カメラなどが、IRシステムの試験運用のデータ供給源になっているらしいです。

ラジオライフ8月号(三才ブックス)で警察の監視カメラが記事にしていて、それを紹介します。

「さて、記録された画像を利用する場合は、○○署刑事課長などの所属長が『データ活用申請書』を提出することになる。が、『録画検索簿』によると、依頼理由には『捜査』のほかに『その他』という項目も見受けられる。歌舞伎町監視カメラで撮影したデータの使用は、どうやら捜査に限定しているわけではないようだ。ウラを読めば、捜査以外の用途を前提しているということにもなる。」
「顔貌認識システムは、カメラで撮影した人間の顔から、目、耳、鼻の間隔などの位置関係や特徴を瞬時にデータ化しデータベースと照合する『人間版Nシステム』といってもいいだろう。
ここで、警察が持つ免許証データベースが活きてくる。警察庁は、『免許証データベース』として最新の顔貌情報をすでに保有している(更新時に顔写真を撮影するカメラはデジタル化されており、光ディスクでファイリング済み)。さらに、免許資格のない者を対象に、身分証明書として『ゼロ免許証』を交付する計画も、道交法の改正で実現している。
つまり、歌舞伎町監視カメラは、バイオメトリクスによる国民監視を前提としたシステムなのだ。秘密裏に導入していると断言できないものの、ソフトウェアの変更で、いつでも変身可能ということである。無差別に大量撮影したところで、全国民を網羅した顔貌データベースとマッチングできなければ、『大量のデータストック』も宝の持ち腐れになってしまう。」
(「ラジオライフ」2002年8月号)

「今の社会ではプライバシーなんて無いも同様」。
そう捉えたほうが、私は正しいと思います。
国民の防犯のためと銘打って、これらの監視システムが出来上がったのですから、プライバシーが犠牲になっても仕方がないでしょう。
権力というのは、この国民の安全とか人権とかを上手に活用するものです。
ここでもやはり、国家がどこまで国民に干渉するのか、ということが争点になります。
経済政策にしろ、国防政策(ここでは防犯も含む事にします)にしろ、ごっちゃに語られ、さらに国会では、これらが政党間の取引に使われますから、手に負えません。
ここで少しは「小さな政府」が見直されてもいいような気がしますが。

また、バイオメトリクスの技術は、コピー技術との競争です。
さまざまな認証システム開発の一つの技術ですが、コンピューターを使ったコピー技術から単純なコピー技術まで、盲点が危惧されています。
コピー技術は、いわば、ゲリラ技術です。
学生時代をすごした人なら、一度はカンニングした経験があると思います。
善し悪しは別にして、あれもローテクなゲリラ技術(今はハイテクなのかなあ?)です。
そう、監視システム、認証システムをいくら開発して作っても、次から次へとゲリラ的に破るのが世の常で、それも科学であると言えるでしょう。
さらに国民に与えたその信用度、安心度を利用して、システムを悪用し、裏で笑っている者も出てきます。
それなら、ネット社会でいうハッカー(クラッカーじゃなく)のいたずらやジョークは、なくてはならないものです(意味わかるかなあ? わざと突破して、システム管理者をバカにする。この場合、バカにされるほうに落ち度がある)。
つまり、私はゲリラは必要悪(悪かどうかは意見の分かれるところ)だと思います。

で、最後に2題引用します。人権主義者の喜ぶ内容です。
人権主義者でなくても当然といえる内容ですが。

「本システム(IRシステム:hajime注)において最も注目すべきは、防犯目的というタテマエがあるにしろ、警察が往来を歩く人間の監視を目的にした”定点観測カメラ”の設置を、堂々と謳い始めたところにあるのだ。
東京都公安委員会による『街頭防犯カメラシステムに関する規定』と、警視庁副総監通達の『街頭防犯カメラシステム運用要綱』が明文化されているが、これは単なる内部規定。設置の根拠というわけではなく、運用のガイドラインに過ぎない。
むしろ、『いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあってはならない』(警察法第1章第2条)に抵触している疑いすら指摘できる。さらに、大阪府警が大阪市西成区の『あいりん地区』に設置した15台の防犯カメラのうち、特定の建造物を監視する1台について、1998年に最高裁がプライバシーの侵害を理由に撤去を命じた、という判例もある。
元祖警察監視カメラといえる『オービス』が導入された当時に肖像権問題が争われた際、最高裁が『事前に告知する事』(”自動速度取締機設置路線”などの看板)、『まさに犯罪が行われている証拠として撮影』の2点を挙げ、オービスに合憲判決を下した。
再び『街頭防犯カメラシステム運用要綱』に目を落とすと、『当該防犯カメラ設置場所を管轄する警察署長は、設置区域に通じる道路の見やすい場所に、別図に示す<カメラシステム設置板>を必要枚数設置するものとする』とある。そこで、歌舞伎町を歩いて実際に数えてみたのだが、設置板は21か所しかなかった(カメラは50台:hajime注)。仮に、1カメラ1設置板と考えても半分以上が『予告なき撮影』となり、通達の原則はスタート時より崩壊している。」

「2001年10月25日、警察監視カメラのニューカマー『スーパー防犯灯』(正式名称:街頭緊急通報システム)が大阪府東大阪市でデビュー。そして今春には、北は北海道岩見沢市から、宮城県古川市・山形県鶴岡市・東京都世田谷区祖師谷・同江戸川区清新町・同墨田区墨田・同杉並区浜田山・新潟県上越市・静岡県静岡市・富山県富山市・大阪府大阪市平野区・同豊中市・香川県善通寺市・同坂出市・・・そして南は沖縄県那覇市まで、全国10都道府県の指定モデル地区で試験運用がスタートしている。
警察庁が公表しているスーパー防犯灯の業績指標には、『街頭緊急通報システム設置地域における路上犯罪(道路上で発生した強盗、強姦、強制わいせつ、略奪誘拐及びひったくり)の発生件数を減少させる』とある。しかし、実際には『府警が(東大阪市)布施地区のスーパー防犯灯からの通報受理件数を調べたところ、思わぬ結果が出た。昨年10月から3月までの通報183件のうち、ひったくりやけんかなど、実際に起きた事件の通報は4件だけ。(中略)記録された画像からみると、酔っ払いや少年らが、おもしろがってボタンと押しているケースが多いという』(毎日新聞・4月8日夕刊)。ハイテクな防犯装置ではなく、古典的なイタズラ”ピンポンダッシュ”のエジキになっているという有り様なのだ。
しかし、警察がスーパー防犯灯を設置した本当の目的は・・・。そう解説した歌舞伎町監視カメラと同様、である。」
(前掲書)

以上、歩行者を対象にした監視カメラシステムの現状を紹介しましたが、自動車を対象としたNシステムも増殖を続けています。
正式名称は「自動ナンバー記録システム」で、全国約700か所を数えるほどになりました。
いわば「国民移動監視システム」で、先の監視カメラを利用した「歩行者監視システム」と併用すれば、完全に個人の行動が掌握できます。
私自身は別にプライバシーを気にしないし、仮に普段の素行で恥をかいても、失うものもないので気にしませんが、これを気にする人が権力者だったりするなら、これは大変なことになります。

このように、住基ネット以前に、もっと深刻な問題があったわけです。
住基ネットなんてかわいいもの。
個人情報なんてとっくの昔に流出しまくってますよ。
今さら・・・。
それよりも監視システムのほうが恐いを思いませんか?
(2002年8月15日)



ブードゥー・サイエンス 再び

今日、スペースシャトルの不幸な事故が起きました。
まず最初に犠牲者となった7人のご冥福をお祈りします。
ここで私は“犠牲者”と書きました。
私は「ブードゥー・サイエンス」という本を紹介していますが、その中に書いてあるとおり、無意味な有人宇宙開発を進めているがゆえの表現です。
何の科学的有益性のない実験を繰り返していて、しかも危険度の非常に高いものをまだ続けるようです。
さらなる犠牲者が出ないことを祈ります。

実験で成果が出なかった時、その実験自体の意味がないものもあります。
しかし、それも科学実験の成果です。
今後はその実験をしなくてもよい、と、わかったことが成果です。
このようなことは、大学の基礎的な分野の科学では、たくさんあると思います(私がやった卒業研究も実は無意味でした。その後、その関連の分野の研究は行われていません)。
今回の事故を踏まえ、「有人宇宙開発は無意味に等しい。すべきでない。」と結論づけるのも科学の立派な成果です。
そこを政治家が割り切れるかどうかで、さらなる犠牲者の増加数が確定します。

ここで「夢」を語る人が出てくるかもしれませんので、一言。
天下のNHKの連ドラ「まんてん」でも、宇宙への夢を題材にしていますが、あれは「夢」であり、創作でしかありません。
物理の現実を無視し、「夢」を無理に実行すれば、それは「悪夢」になります。
その辺の分別は、いい大人ならつけてください。

「夢」を見、語るだけなら、各自の「自由」です。
(2003年2月2日)



銀行の仕事とは?

不良債権がどうのこうの、という新聞の話題には暇がないですね。
しかし、銀行の責任がクローズアップされることはほとんどなく、それをどうするか?しか書かれていません。
銀行は税金を投入して本当に救えるの?
そんな疑問がどんどん沸いてくるのは私だけでしょうか。
だいたい小泉首相は自民党をぶっ壊すと言っておきながら、結局利益誘導主義と妥協。
あれじゃ、首相本人が考えていたことは骨抜きになって、中途半端ならさらに悪くなるのは必至。

すみません、脱線しました。
借金するときに、財産と保証人が必要ですが、これは本当に必要なのかどうかということです。
銀行は金を貸すとき、その人の経営状態を調査するんでしょうが、その判断基準が、借金を取れなくなったときの担保としての財産にあります。
さらに、連帯保証人の財産まで調べて、足りないときは、さらに新たな保証人をつけるという具合に。
で、返せない時の責任は全部債務者で、貸した側の責任はほとんどなし。
稀に大企業に限り、債権放棄ですね。
こんなことは、サルでもできます。(おサルさん、ごめんないさ〜い)
そんな仕事内容でも、給料はしっかり頂く。
銀行さま、あなたは何様ですか。
何か生産してますか?
で、今では銀行もずるくなって、「財産だけじゃ貸し渋りをする」とある人が言っていました。
カネがある人に貸すんだそうです。
あはっ、これじゃホントにサルでもできます。
固定資産は、ただそこにあるだけでは、価値なし。
その資産を使って金を生まないと。

私は、恐らくこのままでいけば、カネを借りることができなくなります。
連帯保証人の問題です。
保証人になってハンコを押し、借金した人が事業に失敗し、そのとばっちりを食って、財産を全部取られた、って話はたくさんありますね。
必死に保証人が返している例もあり、それも膨れ上がった利息分まで。
取れるならどこまでも。
それじゃ、誰も連帯保証人にはなりたくないですよね。
保証人が必死に返す場合は、元本だけにするとかしないと。
事業の失敗を予測しないで貸した銀行側にも、責任があるわけですから。

それで私はこう思います。
銀行員の仕事とは何なのかと。
サルでもできる審査が銀行員の仕事なのかと。
人を見て貸すことはできないのかなと思ったりします。
その人自身の信用で。
金を借りたら、利息をつけて必ず返すという人を見分ける眼力。
この眼力を養うことは非常に難しいでしょう。
しかし、これが銀行員の仕事ではないのでしょうか?
このような仕事ぶりで高給を取るなら、私は文句を少しは控えます。
(2003年2月8日)

加筆
5月24日、法制審議会の保証制度部会は、保証制度見直しの中間試案をまとめました。
個人が保証人である場合、限度額と責任期間を設け、今までの無期限・無制限保証を改善する方向で動いているようです。
詳しくはこちらのリンクを参照のしてください。
早く法制化されることを望みます。
これは事業者にとって朗報で、あとは「保証人になるべきでない」という常識を、どうやって一般の人から取り除くか、ですね。
(2004年6月1日)



新しい産業の負の側面

宮古市関連の掲示板では、よく新しい産業や新しい商売の構築を要求する書き込みが見られますし、また宮古市以外でもきっとそうでしょう。
もっと大きく見れば、国自体もそうです。
経済を好転させるような産業がひょっと出現すれば、きっと良くなると。
国主導でやったITなんかそうでしたね。
ところがその結果は惨憺たるもので、前よりも悪くなった。
ITは人減らしでしかなく、それは以前の機械化と同じ道を結局はたどりました。
国が何かしなければ経済は悪くなる、とは誰が一体考えたものでしょう。
実は、以前は誰もそうは考えてなかった。
たまたま経済理論として、ケインズが、経済政策を国で行ったらどうかと発表し、それが今の世界中の国で行われているだけであって、つまり、その慣例化が逆に国民の側で、「政府は何をしているのか?けしからん」言うようにとなったわけです。
しかも、そのケインズ主義に最も忠実な国がこの日本であると言われ、私たちは生まれた時から、景気が悪いのは政府が悪いからだ、と思っているわけです。

このケインズ主義は、ある産業が衰退していく時に非常に悪く利用されます。
産業の隆盛や衰退は、自由経済ではごく普通のことで、それを個別にみれば、起業と倒産の繰り返しとなります。
ところが「国が積極的に経済政策に関与し、失業者をできるだけ出さないようにするために」衰退していく産業の保護に走るわけです。
よく聞きますよね。
「あの産業がダメになるから何とかしてもらわないと」というセリフを。
国が保護に走るということは税金が使われるわけで、この保護政策は実に不合理で、ものすごい財政赤字の応援部隊となりました。
もっと不合理なのは、土建国家といわれるくらいの土建業を、政府主導でたくさん起業させながら(それも一気にです。少しずつチマチマやればまだマシだったはず)、ダメになりそうになればまた景気対策でハコモノを作ろうとし、それでもダメで、今度は銀行への債権放棄要請(良い例が熊谷組)。
その結果、財政自体は超大赤字。

今、地球温暖化、あるいは環境対策、そしてエネルギー対策として、環境税なんかが提言されていますが、どういうわけか、その最も簡単な課税、すなわち、石油関連税の増税はなかなかしません。
私なんかは、自家用車を庶民の乗り物とは考えていませんから、一気に課税すればこの上ない環境対策だと書いたりしてますが、この課税で被害を被る産業が多いから、これは実現不可能なのです。
ここで比較的新しい産業として、宅急便産業のことを書きます。
宅急便の前から、この輸送産業はあったのですが、宅急便とか宅配便とか宣伝されるようになってから、この業界が躍進したのは周知です。
彼らの動力はモロに石油ですから、石油への大きな課税は倒産モノです。
本来、国の環境、地球の環境を守ろうとするのは、地球人としての最大の責務です。
これを国がやろうとするのは、悪いことではなく良いことのはず。
ところが次々と出現した新しい石油関連産業が反対するわけです。
地球の歴史上、あるいは人類の歴史上でみれば、いや紀元後の短期でみても、石油産業というのは、新しい産業であると言えます。
このように新しい産業というのは、何もいいことばかりではない。
特にケインズ主義に忠実な日本では、さらに雇用維持のため、新しい産業の衰退は許されません。
これが国民の意思になっています(本当に国民の意思だろうか)。

宮古で、行政主導で、新しい産業ができたとします。
無理に作った産業は他へコピーされたりして、いつかは衰退します。
その時の行政の対応が見ものです。
「再び行政はその産業を税金を使って保護するのか?」「その保護を市民が許すのか?」ということを考えもしないで、ただ闇雲に「市は何もしない」と言うのは非常に情けない。
今となったら、コピー簡単産業は最初から作るべきではない、と皆さん思いませんか?
「新しい産業とケインズ主義は対立する図式となっているのでは?」と私は本当に疑っています(バカだと思ってください)。

お前、何を言っているんだ、と思われる方のために、ケインズ主義のことを書いた文章を少し引用しておきます。
引用先は副島隆彦・山口宏著「法律学の正体」の第7章「行政法・税法」からです。

現在の各国の政府は経済政策をおこなうことになっています。
どこで決めたのかわかりませんが、20世紀以降の国民政府は経済政策をおこなって、国民の経済行動にまで直接関与しようとする性質をもっています。
これは経済学の理論から言えばケインズ主義の理論です。
政府が自ら巨額の借金を背負って積極的に経済政策(これは金融政策と財政政策の二つに分かれます)をおこなって、いわゆる「社会福祉」国家になってしまったのです。
元来、古典的な定義では、国家(王の務め)は国防と外交だけでした。
あとはまあ、国民が勝手に生きていろということで、税金さえ取れれば経済変動で国民が貧乏にあえいだりしてもしても知らん顔をしていた。
これが古典的な国家像です。
それが、各種の社会政策思想とジョン・メイナード・ケインズの有効需要創造理論(マクロ経済学の誕生)で、1930年代以降、70年代までずっと、西欧、アメリカ、そして日本もこのケインズ型行政観で国家を運営してきた。
(「法律学の正体」p280)
(2003年4月29日)



規制

今日、旗下ろしも終わり、お祭りも終わりです。
そのお祭りの話題。
沿岸のお祭りでは「ひき船」が定番ですが、規制がどんどん厳しくなり、この「ひき船」の興業が、非常に困難になりつつあります。
私の地区のお祭りで、初めてひき船を出した頃は、ただその辺の船にフライ旗を掲げ、お客さんを乗せて湾内を回遊したそうです。
ところが、船の申請とか検査とかしなければなくなり、いろいろとおカネもかかるようになりました。
その結果、ごく限られた船しか出せなくなりました。
安全面を考えてのことでしょうが、過去1度も事故は起こっていません。
他の地区のどこかで起きたのかもしれませんが。
昔はライフジャケットすら積んでなく、事故なんて起きる事を誰も考えていなかったんでしょうね。
まあ、起きてから問題になり、それを機会に対策するのが常ですから。

で、今年から、今度は乗客全員分の保険も負担しなれければならなくなったそうです。
そのため、私の地区では3年に1度だけひき船をすることになりました。
あらゆる行政機関が危険予測を勝手にし、どんどん規制を加えてきます。
まあ、事故が起きたらどうするんだ?と問われれば答えようがないのですが、しかし、この規制を境に、このような行事はどんどん後退していくでしょう。
私はその辺の限界というか、境界の線引きが必要だと思います。
どこまで事故予測をするのか、ということです。

こんな田舎のお祭りでも規制が増えていますが、これが都会だったらどうなのでしょう?
主催者側の苦労の一端がここにもあるのでしょう。
各種イベントの主催者の方、ご苦労様です。
(2003年10月13日)



靖国神社あれこれ

「正論」2004年5月号からの話題です。

靖国神社なんて、私ははっきり言ってどうでもいいし、戦争は国家戦略の一つであって、戦没者を祀る靖国神社も国レベルの話。
ゆえ、私は個人的に靖国神社なんて無関心でしたね。
で、まず靖国神社とはどういう方が祀られているか?ってことから、勉強しなくちゃいけないわけで、都合よくそのことが書いた論文が「正論」にありました。
そんなの常識だって?
いやあ、それがそうでもないらしいです。

東京大学名誉教授の小堀桂一郎さんの「靖国・英霊『分祀』論の妄を弁ず」から、引用などをまじえて書いてみます。
靖国神社の前身は、明治2年に現在の九段の地に創建された招魂社で、明治12年に名称が靖国神社に変わりました。
これは名称の変更、別格官弊社の社格付与という行政上の措置にすぎなかったといいます。
そして、この神社に戦歿者が祀られた。
その数は232万余柱といわれています。
ここで引用します。

戦争犯罪裁判での受刑者達の国内に於ける処遇上、劃期的な判断基準の定立となつた昭和27年4月の第16回特別国会に於ける法改正決議は、自由党、改進党、右派・左派社会党と、与野党挙げての全会一致の可決だつた。この決議があったが故に、それを受けて昭和殉難者達の靖国神社への合祀が実現した。東京裁判の被告だつた14柱の御祭神ももちろんこの国会決議に支へられて合祀されるに至ったのだ。
(「正論」2004年5月号p54)

その後、昭和28年8月に「戦傷病者戦歿者遺族等援護法」が改正され、戦歿者遺族年金と弔慰金の支給が、法務死亡者にまで対象となりました。
ここで少し、この法務死亡者について説明します。
法務死亡者とは、裁判において命を亡くした人のことで、これは「A級戦犯」などの犯罪人呼ばわりに対抗する形の呼び方です。
実際、東京裁判のような「不公正」な裁判で、明らかに無罪であるのに有罪にされた人を犯罪人扱いするというのは、それはおかしな話(これは南京での裁判でも同じことが言えます)で、日本の国会などで「戦犯」と呼ぶのは控えなければならない、という小堀教授の指摘は、正しいと言わざるをえません(彼は中曽根元首相の発言が不適当であることを指摘しています。全般にこの論文は中曽根氏を非難したものです)。
そうですよね。
国からみたら、決して「戦争犯罪人」とは呼べません。
お国のために尽くしたんですから。
しかし、私たち個人にとっては、戦争は犬死でしかなく、その指導者層はやはり「戦犯」です。
全ての戦争犯罪裁判で命をなくした殉難者は、1,068人とされていて、その後、東京裁判での法務死亡者の数も加えられ、昭和31年、正式に「靖国神社合祀事務に対する協力について」との通知を全都道府県に発しました。
ここで少し引用します。

靖国神社への英霊の合祀は、斯くして国家行政の一端として全国的規模に於いて実施されることになつた。この調査の結果、戦歿者の氏名が「祭神名票」といふ形をとつて厚生省から靖国神社に送られる。その期に及んで靖国神社が祭神の資格判定などを下すわけではない。神社は国の作成した祭神名票に基いて神社としての祭祀手続を取るまでのことである。
(前掲書p54)

ここまでが、靖国神社に祀られている戦歿者についてのあらましです。
以上の引用に関わることですが、途中で非難されている中曽根氏は、「戦犯」を「分祀」する、ということを靖国神社側に交渉した経緯があるのだといいます。
すなわち、重度の「戦犯」を靖国神社から分けて祀れば、公式参拝も認められるのではないか、ということらしい。
それに対し、小堀教授は国会決議を経てただ事務的に合祀したものを、靖国神社を相手に「分祀」を要求するのは筋違いであり、またどういう基準で「分祀」するのかについても非常に難しい問題だ、としています。
公正でない裁判において、「戦犯」とされた戦歿者をどのような基準を用いて分けるのか、そんなこと確かに分かりませんよね。
この中曽根氏の主張の裏側には、昭和61年8月15日の北京政府の恫喝に屈服して靖国公式参拝を取りやめた経緯があり、その屈辱から脱却するため靖国神社の公式参拝を目指すべく方策を練り、その成果を自らの力量として誇示したいのだ、とあからさまな名誉欲が垣間見られるようです。
以上のことが、「正論」誌上の小堀教授が書いた論文の主旨です。

靖国のこと、少し勉強になりました。
祀ることは国会審議を経て法律をもって行われましたが、首相などが公式参拝するという法律はないし、またそんな法律なんて国会は通らないでしょう(今の状態なら通るかもしれませんが)。
戦争に行かなくたって戦死者はいますし、戦争に行って戦死した人も好きで行ったものではありません(中には好きで行った人もいるかもしれませんが)。
遺族会のご機嫌取り、票集めを目的とする自民党のパフォーマンスですから迷惑なものです。
また、公式参拝を望む遺族会側も、いつまでやったら気が済むんですかねえ。
よく考えれば骨があるわけでもないし、遺族は遺族で自分の家の墓で戦没者を拝んでいるんでしょう。
それにもかかわらず、靖国神社でみなさんに拝んでもらいたいんですかねえ。

オカルティックな話になりますが、私がもし戦争に強制的に行かされて死んでしまったら、召集令状を出した人を恨みますし、お化けででますよ。
また、総理大臣なんかに参拝されたくないし、家族、親族だけで結構です。
戦死した人が私の家族でも、総理大臣なんかに拝んでもらいたくない。
迷惑だ!って私は言いますよ。

リバータリアニズムからいえば、「すべての人は、自分自身、自分の肉体、自分の精神を所有しているため、人には生きる権利がある。故に、不当に他人の生命を奪うこと、すなわち、人を殺すことは、人に起こりうる最大の権利の侵害である。」のですから、戦争反対なんです。
どっちみち戦争というのは国がするものであって、個人レベルでは、やはり戦争は反対なんです。
戦争を今後100年もしなければ、こんな靖国問題もなくなります。
まあ、積極的な提案とすれば、靖国参拝云々はマスコミ側が一切無視して、まったく話題にならなければ、賛成反対の宣伝にもならない。
靖国参拝は、賛成側も反対側も国内外含めて、政治活動の材料にされているだけで、何にも実がない(これは南京大虐殺の構図と同じ)。
つまらない「年中行事」の一つです。

次に、片岡鉄也さんが興味深い論文を、またまた同じ「正論」誌上に発表しています。
ブッシュは靖国神社を参拝したいんだそうです。
その辺の記述を引用します。

ブッシュ大統領が小泉総理を靖国に誘ったのは2002年2月でしたが、殆ど同時に行った年頭教書では、北朝鮮、イラク、イランの三国を「悪の枢軸」と定義し、5月末にウエストポイント士官学校での卒業式では先制攻撃の理論を開陳することになります。ブッシュが総理を靖国に誘った時には、既に先制攻撃理論を考慮していたのです。
ブッシュが陸軍士官学校で述べたことは東条英機が東京裁判でした弁明と同じなのです。国家は自衛のための先制攻撃を放棄できないのです。大統領はそれを意識していたのです。これは共和党右派が共有する哲学です。彼らにとって戦争は世の常であり、永遠の平和は空想なのです。乱世に生きて、緊張を保つことが鍛錬するというのです。
ですから共和党右派の純正保守は、戦争犯罪と呼ばれるものの中で「人道に対する罪」の追求は是認しますが、「平和に対する罪」という概念を拒絶するのです。更に、ルーズベルト大統領が日本をこの罪で断罪してしまったことに良心の呵責を感じるのです。ブッシュはヒットラーの墓地があったとしても、絶対に参拝したりしません。だが靖国には東条がいるからこそ参拝した。彼なしでは行っても無意味なのです。
(前掲書p267)

ブッシュ自身が起こした戦争を正当化したいがために、そんな参拝するなんて。
日本の英霊がブッシュの参拝を喜ぶだろうか?
戦歿者の遺族はこんな目的のブッシュの参拝を喜ぶだろうか?
共和党右派はそんなものかもしれない。
世界各国の右派どうしだけで戦争をやればいいんだ。
もう、最後にキレてしまいました。
(2004年4月13日)



ハンナン事件から差別を考える

昨日、牛海綿状脳症(BSE)対策の国産牛肉買い取り事業で輸入肉を国産と偽り、業界団体から6億数千万円をだまし取ったとして、食肉卸大手「ハンナン」(大阪市)の元会長浅田満容疑者(65)が逮捕された、と報道されました。
2002年1月に、雪印食品が同じような偽装事件を起こしていますが、この時すでに、このハンナンにも疑惑が囁かれ、そのことは「噂の真相」2002年5月号に詳細が載っています。
当時、この事件は、政治家や農水官僚らの疑惑隠しのため、お蔵入りになったのか、その後、報じられませんでした。
不思議なのは、なぜ今頃でてきたのか?ということです。
なんか政界、あるいは官界で何かあったんじゃないかなあ、と勘ぐっています。

食肉業界というのは、いわゆる同和利権の一つといわれ、逮捕状の出された浅田容疑者の一族は、同和団体と深い関係があると、これもまた「噂の真相」2001年12月号で詳しく報じていました。
かなり昔の話なんでしょうが、危険な仕事とか汚い仕事というような、誰もやりたがらない仕事は、被差別部落の人たちにやらせていた、という歴史があり、現在でもこの差別があるとされています(ホントにあるのかなあ?)。
私は、この部落差別というのをぜんぜ〜ん知らず、「噂の真相」を読んでいて初めて知ったのです(恥ずかしながら)。
被差別部落に関しては、その地区の生活向上のために政府が予算を組み、また、これらの被差別者の団体として、部落解放同盟などのいくつかの団体が存在します。
最近の指摘では、これら同和団体が、逆にこの差別を利用し、さまざまな利権を手に入れており、結局その利権を利用した不正が明るみに出ました。
このように差別が権力を握る過程を表した文章を、ついでですので紹介します。

藤田は学生時代から部落解放運動にかかわり、糾弾した経験もされた経験も持つ。藤田は解放同盟運動が自己を客観視できなくなってきた原因を、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」「部落や部落民にとって不利益な問題は一切差別である」とするテーゼに解放同盟が縛られてきたからだと分析する。
厳しい闘いを通じて解放同盟が力をつけてきた。しかし、法に守られ、行政やマスコミを「味方」につけた段階で、「力」は違った意味を持ちはじめる。この点で自覚的にならないと、いつかは力は「権力」に成り果てる。そして権力は、常に人々の目に晒され、批判を受けないと暴走をはじめる。暴走は、恣意的になるということでもある。そして一部の理不尽な糾弾や要求が深刻な副産物を生み出していったのである。
(「噂の真相」2004年1月別冊「日本のタブー」p46)

この藤田とは「同和はこわい考」を書いた藤田敬一さんです。
差別の行き過ぎた主張は、権力となる可能性があり、例えば、差別されたユダヤ人についてのクレームはタブー視されたりするのは、これと同じ構図ですし、もっと極端で身近な例ですと、ロクに働かない労働者が「われわれは弱者だ!」とか何とか言って極端な権利を主張し、無理な賃上げ要求した過去の現象も、これと同じものでしょう。
こうしてみると、差別は逆の意味で恐いですね。

ちょっと話は変わりますが、芸能界にはこの被差別部落出身者がかなりいるといわれ、また在日外国人を合わせると、芸能界をほとんど占めてしまうとも言われています。
せっかく成功して金持ちになったんですから、リバータリアン(リバータリアニズムに従って生きる人)になって、政府のいいなりにならない強い人になってもらいたいです。
そうすれば、差別された側が権力を見返したことになり、なんか気分いいじゃないですか。
どうせ人は死ぬんですから、信念を持って死ねれば立派なものです。
(2004年4月18日)

加筆
宮古に住んでいる人は、やはりこの問題を知らないようです。
「部落」という言葉は、宮古では「集落」と同義語として、普通に使われています。
誤解されることがあると思いますので、この問題を知らない人は、岩手以南へ行ったとき、安易に「部落」という言葉を使わないようにしましょう。
(2004年6月11日)



信仰もほどほどに

「我々と異なる思想だからだ。
それによって人々は神の言葉に疑問を抱き始める。
疑問こそ信仰の敵なのだ」

「笑いは恐れをなくす。
恐れなくしては信仰は成りたたぬ
悪魔への恐れをなくば神はもはや必要とされぬ。」

以上のセリフは、映画「薔薇の名前」からです。
副島隆彦著「アメリカの秘密」では、この映画を紹介しており、原作も「薔薇の名前」です。
彼は、彼特有の難しい見方をしていて、学問的には価値のある作品らしいですが、私は学問はやらないので、ストーリーだけで十分です。

中世のある修道院で殺人事件が発生し、その事件には、ある本の所在が関わっています。
その本には「笑い」のことが書かれていて、修道院院長などがその事実を隠すべく、本を読んだものが死ぬようにページの端に、毒の砒素を塗っておく。
そこを指でめくり、ページをめくる度にその指を舌でなめるため、死者の指と舌は黒くなっていた。
主人公は旅の修道僧で、彼が真実に迫りますが、最後には問題の「笑い」を記した本は焼けてしまい、事件の首謀者も死んでしまいます。

冒頭のセリフは、このような閉鎖された信仰の維持装置を言い表したものでしょう。
特に、

「疑問こそ信仰の敵なのだ」
「恐れなくしては信仰は成りたたぬ」

上記の映画では、カトリック教派閥や修道院の権力を維持したいがために。
そして、創価学会(こちらを参照)にも、この二つは完璧に当てはまります。
ん〜、これって、実は政治組織とか、一般の会社組織とか、いろいろな偏狭な組織に当てはまりますね。
「疑問」が否定されるなら、進歩なし、ってことになります。

たぶん私は、典型的な日本人的宗教観だと思うんですが、都合のいいように神仏を拝んでいます。
正月には神棚を拝み、節分には豆まきをし、春分、秋分、お盆には仏様を拝み、クリスマスにはしっかりケーキを食べる、といった具合に。
美味しそうなお菓子が仏様に上がっている時は、丁重に手を合わせて拝み、ご馳走になります(笑)。
はっきり言えば、特定のものを信じていなくて、つまり、良い(?)ところだけをとって、ということは、他の信仰に敵対心などない、ということでしょう。
「お笑い創価学会 信じる者は救われない」のテリー伊藤氏に言わせると、日本人は宗教がいいかげんで、そのために何でも食えるし、そのいいかげんさのため世界中のいろんな宗教が入り込んでいて、その宗教を商売や恋愛にまで利用している、と。
ホント「いいかげんだ!」と思われるかもしれませんが、少なくとも信仰で争いごとをすることはありませんね。
これって、宗教の「平和利用」ってヤツかもしれません。
前にも書きましたが、どんな信仰をしようとも、他者に対する寛容さが必要で、教義を厳格に信じないことですね。

それから、もう一つ。
私は、曹洞宗のお寺の檀家ですが、現在のお寺は「どうにかしてお金がほしい」のように見受けられます。
「葬式仏教」とも揶揄されていて、檀家からお金をどうにか巻き上げたいという意志を、この葬式仏教からくみとってしまうならば、これは、「信じるものは救われない」創価学会と大して違いない。
私の小さい頃は、お寺の住職は、いろいろな地区の行事に顔を出したり、お寺保育所などもやっていたものです(今もやっているところがいくらかあります)。
確か、何かの新聞にも、「葬式仏教」から脱却するために、お寺も積極的に市民と交流を持つべきだとかいう意見が載っていたと思います。
その例として、あの訳のわからないお経を口語体にしたらどうかとか、具体的なものもあったと思います。
「開かれた仏教」。
いいですねえ。
これができないんだったら、もう宗教法人として保護は受けず、しっかり税金を払ってください。
それなら、みんな納得すると思います。

いろいろといい加減なことを書きましたが、もしかして、私のように宗教に無知だと幸せ?
(2004年5月19日)



テレビメディアは人を偉くする?

昨日、テレビで、拉致被害者家族連絡会の、小泉首相に対する不満や批判を見ましたが、ものすごいですね。
中には「政治責任」を問う声もありました。
私は行き過ぎだと思います。
ということで、今日は小泉首相に応援します。

国交のない国、実質的に鎖国状態にある国と、外交交渉をするということが、どれほど難しいことなのか、今回の訪問を見て、私はものすごく感じます。
特に、他の10人の拉致された人たちが生存しているか、していないか、という、確認不可能で微妙な問題が、これに拍車をかけています。

立場を変えて、金正日総書記の側から見てみましょう。
他の拉致被害者が生存しているならば、北朝鮮側は人質に取っているといってもいいでしょう。
この場合、さらに日本側から「カネ」を取ることができます(食糧支援も結局はカネ)。
拉致被害者が本当に他界しているならば、と考える場合は、さらに二通りの考え方がでてきます。
日本がこれを「信用する」場合と「信用しない」場合の二つ。
日本が「信用」する場合は、日本と北朝鮮との問題は、核だけとなります(拉致されたのではないかと疑われた人を除く)。
これは日本の立場が最も好転する場合です。
ところが、日本が北朝鮮の情報を「信用しない」場合は、これはいつまで経っても解決しないでしょう。
本当に他界していても、恐らく、今の拉致被害者家族連絡会では信用しないでしょうから。
この場合、ますます北朝鮮の思うつぼです。
国交がないから日本側は北朝鮮を調べることはできませんし、情報なんて入ってこない。
北朝鮮としては、いつまでも、拉致被害者が生きているようにほのめかしながら、日本との外交交渉を有利に展開できるからです。

以上のように、日本側の立場は、ものすごく不利です。
訪朝にまったく前進がなかった、と言っても、5人は帰ってきて、曽我さんの家族再開にも道筋がついたわけです。
「連絡会」の中には、ただ5人を連れてくるだけだったら、首相以外の人が行っても良かったという人もいましたが、それは???ですね。
他に誰がいるんですか。
今まで、何人か自民党代議士が訪朝してますが、成果なしですし、川口外務大臣では、バカにされるだけでょう。
相手は女を妾程度にしか見てない人ですから。
そんな相手でも、とにかく国交を樹立し、お互いの国を自由に行き交うことができるようになれば、北朝鮮の情報はかなり入ります。
ところがここで、日本側が強硬態度に出て、再び緊張関係になれば、拉致問題解決はずっとず〜っと先になるでしょう。
そう、思いませんか?
経済制裁をしたとして、北朝鮮が譲歩すると思うのでしょうか?
拉致被害者連絡会の人たちの理想をすべて解決するには、何も前進しません。
いや、永久に国交回復は無理でしょう。
そういうわけで、私なら、小泉首相の行動力を買います(私も好きですよね。一般の論調と反対のことを書くのを)。

どうせなら、予測されているように、北朝鮮がソ連みたいに内部から崩壊すればいいんですが・・・。

この拉致被害者家族連絡会は、「感情的」というより、すでに「政治的」です。
どういうわけか、テレビで出るようになると、みんな「政治的」になるような気がします。
これは先日のイラクで人質になった人たちの家族にも言えることです。
彼らも、最初のうちはただ「助けてください!」だったのが、だんだん時間が経ち、カメラ慣れしてくると、「政治的」になってきたのは、まだ皆さん記憶にあると思います。
それがあのようなバッシングにつながったんでしょう。
拉致被害者の各会には、拉致議連やいろいろな団体が最初からついてましたから、「政治的」なのは仕方ありませんが、あの横田さんが、最初は孫に会いたい一心だったのに、今や「政治的」な発言が目立つようになっています。
今回、テレビに出演したたくさんの拉致被害者連絡会のメンバーの発言を聞いていると、あまりに「政治的」で、何となく、今回子供たちが帰った家族の肩身が狭いような気がしてきます。

不思議なのは、どうしてあんなに連絡会のメンバーが集まったのか?
事前に政府から進展があるという連絡があったとは考えられません。
ということは、やはり「政治的」な狙いがあるのか?
あるいは、マス・メディア(テレビ)にそそのかされたか?
少なくとも「政治的」な行動を起こすには、テレビは格好なメディアであることは確かです。
テレビはとにかく視聴率を取るため、そして他社と競争するため、演出をしすぎます。
特に最近、被害者が出過ぎの感じを受けます。
とにかく被害者、そして、その周辺に対するインタビューは、ものすごいの一言で、各社ともこのインタビュー競争に心血を注いでいると言っていいほどです。
インタビューされる側は、「自分がものすごく注目されているんだ」という意識が高くなり、「これは自分の言い分が通るようになる」と錯覚し始めるんじゃないでしょうか?
それが、各自それぞれにある「政治的」な主張を始めさせる契機となるような気がします。
メディアの過剰なインタビューは、番組の素材であり、社会の事象はすべてワイドショーになり得ます。
今回の「政治的」な発言は、「テレビが生んだもの」だと私は思いますが、思い過ごしでしょうか。
(2004年5月24日)



頑張れ!西宮冷蔵

ちょっと前にテレビで、西宮冷蔵の苦難を放送していました。
雪印食品の牛肉偽装事件を告発し、その後、取引先が逃げ出したり、またいじめられたり、国から“嫌がらせ”(←私はそう思っています)を受けたりして、廃業同然となります。
電気まで止められ、そこで家族で協力しあい、生活することになります。
その後、全国から寄付を募り、なんとか営業再開した、という番組でした。
検索してみると、次のリンクが出てきました。

http://www.mail-journal.com/20020925.htm

先のテレビ番組では、その内部告発を法律で保護するようになるとか、ならないとか。
逆に、この内部告発を悪用する輩も出てくるのを、今度は警戒しなくちゃいけないそうで、最後は、人の善意というものが問題になる、と結んでいたように思います。
寄付者の中にかなり大口の方がいたことも、放送していました。
確か、福井県のお寺の住職さんだったような気がします。
その金額は数百万円。
正しいことをした人間が追いやられるのを見ていて、何とも耐え難かったらしく、ドンと寄付したようです。
ところが、どうもまだ妨害する連中がいたのです。
それはお上で、次のリンクでそれがわかります。

http://www.janjan.jp/living/0405/0405234636/1.php

しっかり返済していた会社を妨害するとは、何てことでしょう。
お上はバカなのか?
まあ、それ相応の理由があるんでしょうが、柔軟性がまったくないといいますか。
13億円の借金でも、毎月300万円ずつ払えば年間3600万円、10年で3億6千万、40年で14億円。
利息分がかなり出るとしても、少しずつでも返済するということは、銀行側でも助かるわけで、もし全額返済されるならば、それは銀行の儲けとなります。
それが営業できずに、本当に倒産、廃業となると、まるまる13億円が損。
もしかしたら、それが私たちの税金に跳ね返ってくるかもしれません。
税金からお給料を取るお上は、何を考えているんでしょう。

と、応援したくなって、ここで取り上げました。
西宮冷蔵のことは、「西宮冷蔵を再建する会通信」というのがあって、随時更新されているようです。
(2004年6月27日)



食糧自給率

最初に、ちょっと前の「河北新報」から記事を転載します。

100%未満は従属
2001年7月、米国の首都ワシントンDC。ブッシュ大統領が農業者を前に熱弁を振るった。
「国民を食べさせるに足る食糧を生産できないような国を想像できようか。そんな国は国際的な圧力に従属する国になる」
米国の食糧自給率(カロリーベース)122lに対し、日本は40l。日本をはじめ諸外国を「従属」せざると得ない状況に追い込みつつ、国内では平然とこう言い放つ超大国のリーダー。演説の全文を手にした東北農政局の海野洋は「自給率100パーセント未満の国は従属関係になる、という米国の本音を垣間見た」と感じ、元フランス大統領ドゴールの言葉を思い浮かべた。
「食糧が自給できない国は真の独立国ではない」
今月14日、わずか300`のコメが宮城県内を揺るがせた。震源地は仙台市太白区の老舗米穀店「米庄」の柳生店。店舗に、米国カリフォルニア州産アキタコマチが米国旗とともに並べられた。値段は秋田県産あきたこまちより152円安い5`2,436円。米国生まれの「日本米」の生産コストは、日本の3分の1以下だ。

突然の黒船来襲
宮城県北の良質米産地を抱える栗っこ農協(志波姫町)の菅原章夫組合長は「とうとう恐れていたことが現実になった。価格面では相手にならず、大きな脅威だ」と突然の“黒船来襲”に天を仰ぐ。
日本の食べ物の中で、自給率トップは主食はコメだ。しかし、国民1人当たりのコメ消費量は昨年、初めて60`(1俵)を割り込み、ピーク時(1962年)の118.3`に比べ約半分にまで落ちこんだ。コメ消費量の減少と比例して食糧自給率も低下、今や主要先進国で最低の水準だ。
コメ消費量の拡大が自給率アップの鍵を握るとされるが、本年産米から、売れ残った分だけ翌年の生産量が減らされる国のコメ政策改革が4月にスタート。農家に追い打ちをかける。
「10年以内に食糧自給率を50lにします」。参院選を目前に控え、各党が打ち出した農業政策には威勢のいい数値目標が並ぶ。全国に27ある1人区で勝つには農民票が必要―と、まず民主党が先鞭をつけ、各党が追う展開となった。

膨大な予算必要
自民党は国の基本計画に沿い「45lを確実に実現し、将来は50l以上」、民主党は「政権交代10年後に50l、将来は60l以上」、公明党は「今後10年程度で50l」、共産党は「できるだけ早く50l達成」、社民党は「当面の目標50l」―。宮城県農協中央会の大堀哲会長は「高い目標設定はありがたいが、具体的なプロセスが見えない」と農家の不満を代弁する。
東北大の両角和夫教授(農業経済学)らの試算によると、自給率を10ポイント上げるのに小麦は6,930億円、大豆は1兆80億円かかる。しかし農水省の予算は3兆円に満たない。
両角教授は訴える。「自給率を上げるためには毎年、膨大な金がかかる。日本の農業を本気で残す気があるのかどうか、国民一人ひとりの覚悟が問われている」。国家の行く末に直結する重い選択を、有権者は迫られている。
(2004年6月22日付「河北新報」2面)


さて、政治家の都合のいい選挙用の公約はこの通りです。
誰も信じてないでしょう。
ここで食糧自給率のことを考えますが、それには人口も関わるのは当然の話で、人口が減っても食糧生産が同じであれば、自給率は上昇します。
人口予測のサイトをGoogleで検索すると、トップに「人口・世帯数予測」というページが出現し、これはアトラクターズ・ラボという会社のサイトの中にあります。
その他に政府の予測のPDFファイルなどがありますが、年金制度改革で出生率のデータなどの件で信用できないことをやっていますから、民間のデータの方で考えてみたいと思います。
このサイトの「日本の総人口予測結果」によると、出生率のデータは2010年で1.2を割り込み、その後1.14で安定するようです(政府予測と違いますよね)。
日本の人口ピークは来年2005年で、それ以降は減少していきます。
平均寿命は2030年で、男が80歳、女が87歳。
私が80まで生きると仮定すれば、その時期は2040年を越えてしまうので、そこで2040年時点の人口予測といえば、1億200万人ですが、その後の落ち込みがすごいのです。
20年後の2060年で7,600万人、2080年で5,200万人、2100年で3,500万人となり、明治の初期の水準になるそうです。

現在の食糧自給率は食料需給情報ステーションのサイトに行けば、PDFファイル(平成14年のデータ)で公表されています。
2年くらい前に見たときは非常にわかりにくい表でしたが、改善されています。
カロリーベースで40%、金額ベースで69%。
金額ベースなんてものは参考程度の留めておくだけで、誰が考えても食糧自給率はカロリーベースのことでしょう。

現在の食糧自給率40%から考えれば、単純計算で現在の人口が40%になれば食糧自給率は100%になります。
現在の人口の40%が5,000万人ですから、先ほどの人口予測のページから参照すれば、2080年頃には食糧自給率100%は達成されます。
ただし、食糧生産量が横ばいであったとして、です。
ウソか本当か、参議院選挙の各党の公約通り食糧生産量を上げ、現状の人口(10年後もほとんど変わりませんから)で食糧自給率を50%まで達成したとし、その生産量をず〜と持続することを条件に、現在の50%分の人口6000万人となる年代を再び逆算すれば、だいたい2070年頃に食糧自給率100%になります。

人口増は地球上にとって困ることであり、人口減はむしろ持続可能な社会にとって好ましいこと。
ブッシュ大統領の「国民を食べさせるに足る食糧を生産できないような国を想像できようか。そんな国は国際的な圧力に従属する国になる」発言は本音です。
つまり、本当に日本を属国と思っているでしょうから、アメリカの言いなりになりたくないのなら、食糧自給率向上は最低限の使命といっていいでしょう。
ブッシュの本音じゃなくとも、食糧を自給できる国は理想であり、それを各国が目指すことで食糧不足の問題、そして、人口問題というのは自動的に解決されます。
たぶん途中で、日本の人口予測は現在のものより上方修正されると思いますが、それでも今の半分の人口ぐらいにはなるかもしれません。
そして今度は、食糧自給率を向上維持するために、少なくなった人口で、どうやって食糧生産人口を維持していくかが最大の問題となるでしょう。
このように考えると、少子化問題よりも食糧生産人口の減少のほうが、ずっとずっと重要じゃないかなあ、と私は思います。
(2004年7月14日)